続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『埃の栽培』③

2020-05-29 07:07:14 | 美術ノート

 埃を見て感動する人はあまりいないが、何かを感じる人は少なからずいると思う。時間や空間を超越した何かである。

 地球創生時からの物質の変転・・・埃も何かの一部、何かを形成していた一端であったに違いない。
 
 物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない(宮沢賢治『春と修羅』より)

 変転、変移…この塵芥に記憶装置はないが、戦慄するような過去を経過してきたかもしれない。たかが埃、されど埃である。

 軽く降り積もった埃は、地下に眠る堆積物に相似する。
 埃の論理である。吹き上げられた空中の微塵の累積、見えなかった微粒子が見えるものに変容していくプロセスは二つとない無言劇である。世の中における差別、美醜は観念の中には確かに在るが、取り外してしまえば差異の根拠はない。

 存在の意味は、不要の排除ではなく、すべて等しく存在するしかないものの集合である。生きることは観念(データの集積)に左右されるが、排除(埃)によせたデュシャンの吐露、告白がここにある。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより


『忘れえぬ人々』157.

2020-05-29 06:41:40 | 国木田独歩

 その後二年経過った。
 大津は故あって東北の或地方に住っていた。溝口の旅宿で初めて偶った秋山との交際は全く絶えた。


☆他意の真は個(一つ一つ)を問う事が目(ねらい/観点)である。
 惑(正常の判断が出来ずに迷うとき)は、次を法(てだて)のして応じる。
 交ざっている講(話)に慮(思いを巡らせる)。
 宿(前世から)の署(わりあて)の宮(神を祭る場所)に終(死)の算(見当をつける)。
 講(話)は済(救い)、然(その通り)の舌(言葉)である。


『城』3427。

2020-05-29 06:30:58 | カフカ覚書

ですから、客室付き女中は、たいていなにもすることがないのです。お食事中も、廊下に姿を見せてはいけないのです。お役人がたが仕事をされているあいだだけ、お掃除をしてよいことになっています。もちろん、お役人のいらっしゃる部屋はだめで、たまたまだれもおられない部屋だけです。お役人がたの仕事の邪魔にならないように、大きな音をたてないでお掃除をしなくてはなりません。


☆大勢の人たちの現場不在は作り事を取り去ってもよいことになっています。もっとも、全く何もない空のテーマの場合ではありません。この現場不在は、すべて弱い声であり、現場不在の大勢の人たちは、障害などではないのです。