心理劇…視線は画面の中央辺りに位置している。上部と下部の真ん中あたりに人物の配置がある、つまり主要人物である彼らは上からも下からも圧を受けている。
横拡がりの画面は焦点を定めにくい。その上、左右の空間は繋がっているが、右の人物のいる景に比して左は空虚である。半分に切り落としてもいいとさえ言える。しかし敢えて左半分の空虚を必然としたのは右半分の空気をより明確にするためである。この無空に潜在する漠然とした空気感は想像を掻き立てる。
左半分の彩色の暗さは、希望ある明日を排除する。この暗さは夜の景である以上の意味を、右半分の彼ら四人の間に広がるムードによって醸し出している。
ストップモーション、切り取られた静止画は、彼らの吐息を再生させる。何でもないありきたりの光景に明日の時間を垣間見せている。
一人一人が際立ち、人生の片鱗を見せている。夜の一隅にたまたま居合わせた四人、カップルと見える二人でさえ行きずりかも知れない。
画面は人生の重さ、しいて言えば孤独を、左半分のがらんどうな空気に測っている。人の成した叡智である建築(建物)、近代という時代の狭間で人は沈黙を余儀なくされる。自由を約束されているはずの国、アメリカのナイトホークスである。
写真は日経『経済で見る名画/十選』田中靖浩より
我れと他と何の相違があるか、皆なこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行動を辿り、相携えて無窮の点に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙が頬をつたうことがある。
☆画(はかりごと)は多い。
化(教え導く)総ての意(考え)の解(さとり)を展(ひらく)。
逸(隠した)法(神仏の教え)は、字に逸(隠れている)。
覚(感知する)教(神仏のおしえ)は幽(死者の世界)が有(ある)という講(話)が漏れてくる。
点(小さいしるし)は、総て系(つながる)謀(はかりごと)である。
究めると、転(ひっくり返る)記である。
視野(思考見解観察などの及ぶ範囲)を勘(調べ)審(正しいかどうかを明らかにする)記である。
磊(小さなことにこだわらない)画(はかりごと)の質(内容)の塁(より所)は、教(神仏のおしえ)である。
わたしだって、それまでむだに日を送っていたわけではありません。どんなに奔放な空想をほしいままにしているときでも、この地位を手に入れようなどと考えたことは一度もありませんでしたが、それでも十分に観察だけはしていて、この地位がどんなに重要なものであるかを承知していましたから、準備なしに引受けたわけではありません。この地位は、とても準備なしに引受けられるようなものではありません。
☆その上さらに単にただ日を送っていたわけではありません。傷痕を取り除いてほしいというこの立場は、決して厚かましい考えではありません。しかも十分に遵守を承知していますが、この事は予測しておらず受けることはできません。