音、だれが音を目撃したでしょう。だれが音をその手で捕まえたでしょう。
音波の形を変え記号として視覚化できるけれど、それは音の実態ではない。
『秘められたる音』、音を厳重に包囲するなんて、滑稽ですらある。
無を囲む大げさな無為に鑑賞者は誘導され考え込んでしまう。(この中に《音》があり、隠している)、人が音を幽閉する・・・物理的に極めてギリギリ無(ゼロ)に近い状態に持っていくことが可能かもしれないと考えるところに曖昧さを許す脳の働き緩みがある。
音の本質、他動という作用を思えば、絶対に『秘められたる音』などというものは存在しない。
存在しないものを存在しているとして、他者を誘導する、デュシャンの常套手段でもある。
《無を有として思い描けよ》という命題は、決して解けることのない問いに過ぎない。しかし、デュシャンはその隙間に息を殺して答えを待っている。答え無き問いである故に答えの動向に目を凝らしているのである。
写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより
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