画・江嵜 健一郎
上六(上本町六丁目)で所用があり近鉄「上六」駅で乗車した。座った座席の前に「円空」-旅して,彫って、祈って、2月2日~4月27日、あべのハルカス美術館で開催の広告が目に飛び込んできた。上六の次は日本橋、ほどなく難波。円空の広告の下の席の男性他が難波で降りた。抜けた席に小学校2,3年に見えた少女と大きな紙袋を抱えたご婦人が後に座った。これは絵になるとポケットからスケッチブックを取り出して描き始めた。
難波駅から阪神なんば線に変わる。普通電車は難波から各駅停車で14,5分で尼崎どまりとなる。難波以降は客の乗り降りは少ない。座席の右へ右へ描き込んだところで尼崎に着き鉛筆を置いた。自宅で彩色した。
阪神なんば線をコロナ前はよくスケッチした。先日、阪神神戸線で仲良しの2人に刺激され久しぶりの車内スケッチとなった。このたびは、円空という一枚の広告がたまたま目に留まり絵ごころを刺激され手が進んだ。阪神なんば線はコロナのほぼ3年間は空席が目立った。今難波界隈はインバウンド客の一気の回復も重なり様変わりである。
阪神なんば線は快速急行に乗れば奈良と神戸三宮間が乗り換えなしでほぼ1時間で行ける。最近は難波で降りず神戸まで乗る人もコロナ前に戻った。阪神なんば線で神戸と奈良が東西でつながった。一方、阪急が京都線の十三を経由して新幹線の新大阪駅、梅田、難波、大阪空港と縦につながる工事が進んでいる。
「円空展」に戻す。ヤフーブログで調べた。関西での大規模な円空展は約20年振りで単独展。初期の作品から160体が集結する。円空は寛永9年(1632)美濃の国に生まれた。幼い頃出家して23歳の頃、富士山にこもった。寛文11年(1671),40歳の時に奈良の法隆寺で法相宗の法系に連なる僧侶として認められた。
その後円空は修験者として経験を積み重ねていく。延宝7年(1679)、48歳の時、円空は「円空の彫る像は仏その物である」という白山神の宣託を聞く。その後関東の修験寺など寺や霊場を回り次々と作品を残していく。貞享2年(1685)前後、岐阜県、千光寺に滞在、彫刻に没頭した。円空は生涯に12万体の仏像を彫ると誓ったとある。
週明けにでも「円空展」に足を運んでみたい。(了)
難波駅から阪神なんば線に変わる。普通電車は難波から各駅停車で14,5分で尼崎どまりとなる。難波以降は客の乗り降りは少ない。座席の右へ右へ描き込んだところで尼崎に着き鉛筆を置いた。自宅で彩色した。
阪神なんば線をコロナ前はよくスケッチした。先日、阪神神戸線で仲良しの2人に刺激され久しぶりの車内スケッチとなった。このたびは、円空という一枚の広告がたまたま目に留まり絵ごころを刺激され手が進んだ。阪神なんば線はコロナのほぼ3年間は空席が目立った。今難波界隈はインバウンド客の一気の回復も重なり様変わりである。
阪神なんば線は快速急行に乗れば奈良と神戸三宮間が乗り換えなしでほぼ1時間で行ける。最近は難波で降りず神戸まで乗る人もコロナ前に戻った。阪神なんば線で神戸と奈良が東西でつながった。一方、阪急が京都線の十三を経由して新幹線の新大阪駅、梅田、難波、大阪空港と縦につながる工事が進んでいる。
「円空展」に戻す。ヤフーブログで調べた。関西での大規模な円空展は約20年振りで単独展。初期の作品から160体が集結する。円空は寛永9年(1632)美濃の国に生まれた。幼い頃出家して23歳の頃、富士山にこもった。寛文11年(1671),40歳の時に奈良の法隆寺で法相宗の法系に連なる僧侶として認められた。
その後円空は修験者として経験を積み重ねていく。延宝7年(1679)、48歳の時、円空は「円空の彫る像は仏その物である」という白山神の宣託を聞く。その後関東の修験寺など寺や霊場を回り次々と作品を残していく。貞享2年(1685)前後、岐阜県、千光寺に滞在、彫刻に没頭した。円空は生涯に12万体の仏像を彫ると誓ったとある。
週明けにでも「円空展」に足を運んでみたい。(了)