文化講演会会場風景
講談師 四代目・玉田玉秀斎氏を迎えて令和6年2月18日(日)午後1時半から西の宮文化協会二月行事 文化講演会が西宮神社会館であり楽しみに出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。
吉井良昭、当会会長から「本日は今年最初の講演会となります。講師に講談師の四代目、玉田玉秀斎氏をお迎えしました。昨年秋,上田城を訪ねました。真田丸ゆかりの地です。「猿飛佐助」「真田十勇士」の講談はなんども聞きました。」との話の後「本殿の仮設足場をご覧になられ驚かれたと思いますが、本殿の瓦2万3,000枚葺き替え工事をはじめました。11月に完了します。本殿は昭和20年8月終戦4日前に被ばく後、再建、昭和63年に葺き替え、今回は36年振りとなります。」と挨拶があった。
玉田玉秀斎氏は「講談というと落語とよく間違えられます。今、大学でも教えています。最近はなくなりましたが最初の頃、学生の感想文に必ず「今日の落語は面白かった」とありました。」と講演を始めた。
「講談は物語りです。物語は歴史の事です。講談師は人の歴史を語りお金をもらう仕事です。講談にはひとの喜怒哀楽が詰まっています。その講談が日本でどんどんなくなっていきました。明治になって江戸時代と比べガラッと変わりました。勉強とはなんのことか。歴史を勉強することが勉強でした。落語家は先生を師匠と呼ぶ。講談師は物語を語る人。先生と呼ぶ。」と話しを先に進めた。
「江戸時代まで日本に60以上の国があった。200人以上のお殿様がいた。明治にそれを一つの国にする。強引な改革だった。明治20年は国会が開設された年です。発言に責任を持つ。そのため発言をそのま速記した。議事録です。速記は地方議会でも広まった。落語も講談も速記しました。速記をまとめて本にする。関東だけでも50以上の出版社が生まれた。そのなかでたった一つ残ったのが「講談社」です。」と話しを続けた。
玉田玉秀斎氏はロータリー交換留学生としてスエーデンに留学中、「日本のことを聞かれたが答えることが出来なかった。日本のことを知らないとダメなんやないかと知った経験がある。大学は法学部で学んだ。24歳の時、弁護士を目指して司法試験を受ける準備をしていた。その時たまたま起こった出来事が講談師にのなるきっかけとなった。」と話した。
「ある日たまたまかけた電話先で三代目、玉田玉秀斎の話を聞かされた。0798の西宮の局番は忘れられない。いま100人近くいるが、当時講談師は60人ほどだった。講談師も弁護士もお尻に「し」がつく。弁護士も講談師も同じだ。講談師をやれ。」と言われた。このままでは講談がなくなる。何もわからず講談の世界に入った。」
「今回の講演のタイトルに「西宮で起きた、たまたまの奇跡」と書いた。なにもかもたまたま起こったからだった。なんども西宮の師匠の家に通った。今でも阪神西宮駅に来ると怖い先生の顔が浮かぶ。いい思い出はない。講談師になりたくてなったのではない。講談には600年の歴史があることを知った。先生の家には足の踏み場もないくらい本が積み重なっていた。全部読んだ。全てが講談話を速記して出来た本だった。」と話した。
一息いれたあと「講談」ならず「口演」と前置きしての約20分「猿飛佐助」を堪能してお開きとなった。「猿飛佐助」は忍術を教える人。講演の冒頭に四代目、玉田玉秀斎氏は「猿飛佐助によれば忍術とは「油断するな」という教えだと師匠から聞いた。」と話された。「猿飛佐助」の物語を聞き改めて「油断するな」ということを教えられた次第である。
貴重な機会を用意いただいた西宮文化協会事務局にひたすら感謝である。(了)