西宮の城」のはなし
画・江嵜 健一郎
「西宮の城」の話と題して西宮文化協会三月行事で講師に西宮文化協会理事、渡辺武先生の講演会が令和3年3月23日午後1時半から西宮神社会館で開かれ楽しみにして出かけた。ソーシアルディスタンスをたっぷりとった会場の様子をいつものようにスケッチした。
コロナ感染拡大で久しぶりの行事開催となった。「コロナにもかかわらず大勢の方にお集まりいただき感謝します。「西宮のお城」と聞くとおやと驚きますが実は中でも越水城は良く知られています。渡辺先生は西宮でお住みですが大阪城天守閣館長を長年務められた方で全国くまなく研究調査もされたお城の専門家です。」と山下忠男会長が冒頭挨拶された。
自己紹介を兼ねてと前置きして「お城とは長い付き合いがあります。大阪城天守閣学芸員・館長として勤務38年(1962~2000)。「秀吉と大阪城の歴史」の探求と普及に関わった。その間全国の多くの名城をまとめた「日本城郭体系12大阪・兵庫」(1981)(新人物往来社)の編集などにも関った」と渡辺先生は話を始めた。
「ここ2年はコロナでお休みですが、大阪城には年間275万人が世界中から訪れます。これは驚くべきことです。秀吉大阪城は大坂夏の陣迄のわずか32年の命でした。秀吉大阪城は全て破壊され地下に埋められた。新たに出来た徳川大阪城は出来た直後に天守が落雷で倒壊、江戸時代から昭和6年に再建されるまで天守がなかった。再建は市民の民間の寄付で建てられたことに意義があります。このことはほんど知られていない。それともうひとつ、今の大阪城は第二次世界大戦下の空爆に遭い、戦後、再建された3代目です。」と話を進めた。
「ひとことで「城」とは「敵の攻撃に対する防御施設」の全てを現す概念です」という言葉が印象に残った。「西宮の城に話を移しますが、西宮には西宮砲台が1基あります。江戸時代のおわり、国防に不安を感じた江戸幕府は、京都を警護する用地にある大阪湾に砲台を築いた。」と説明した。
「西宮の城」ではまず越水城。観応2年(1351)足利尊氏と弟の直義が戦った小清水の陣のあとです。瓦林正順は永世13年(1316)ここに越水城を築いた。その広さは南北200m,東西100mで小清水城あるいは腰水城と呼ばれいた。ここは西国街道の要衝で、城に欠かせぬ水にも恵まれていた。
「天文2年(1533)には応仁の乱を経て,畿内の覇者三好長慶の居城となり、家臣の松永久秀を京に止め越水城で指揮をとった。永禄11年(1568)、織田信長が入洛、以降越水城の戦略的価値は消えた。大社小学校西南隅に「越水城址」の石碑がある。小清水城の名のとおり、戦国の世以来滾々と清水が湧き、地名の元となった。」とあらかじめ用意されたレジメを読み上げた。
西宮市史 第2巻(昭和35年3月刊)第2章に「徳川幕体制の形成にともない、西宮地方は元和3年(1617)、摂津の国尼崎藩に支配されることになった。もともと、西宮は戦国時代、瓦林正順の越水城のふもとにつくられた城下町的な性格を持っていた。居城が尼崎に置かれたあとは、西宮えびす神社の門前町、西国街道の要地を占める宿場町、さらに兵庫と大阪の中間に位置した商業中心地、さらに沿岸漁業の集散地、加えて酒造を中心とした産業都市として発展した。」と紹介した。
「西宮の城」は越水城、日野神社の境内にある瓦林城、かぶとやまにある神呪寺城、西宮砲台、今津砲台、小松城と7つある。日本全国には広い意味での城の数は2万5,000ある。その意味では少ないかもしれないと説明された。
門外漢としては、石垣があり天守そびえる城をどうしてもイメージしてしまう。恥ずかしながら西宮に城があったことは承知していなかった。神戸にも今は跡形もないが城があったことを最近知った次第である。西宮の城の話を親しく聞く機会を用意いただいた西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)