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「絵図で見る尼崎城」、室谷公一先生、尼崎市立博物館学芸員、大いに語る(スケッチ&コメント)

2022-03-04 12:53:26 | スケッチ

室谷公一先生

 

2月25日(金)午後1時半から尼崎市立博物館学芸員、室谷公一先生を講師に招き「絵図で見る尼崎城」の講演会が西宮文化協会二月行事として開かれ楽しみにして出かけた。会場の様子をいつものようにスケッチした。

 

「コロナまん延防止期間が延長されましたが、蜜を避けるためゆったりとスペースをとりました。講師の室谷公一先生は、昭和36年、愛媛県松山市のお生まれ。関西大学卒業、尼崎市立博物館で日本の近世史のご担当です。本日は沢山の絵図を見せていただくことになっております。今年3月一杯で退任されます。心して拝聴したいと思います。」と吉井良明、西宮文化協会会長から冒頭挨拶があった。

 

「江戸時代を担当しています。令和2年3月に新しく天守が完成したとき当会主催で尼崎城見学会がありました。その時、絵図を紹介してくれと依頼がありました。それが本日になりました。意外なほど沢山の絵図が残されています。5万石大名の割には大きな城です。三重の堀や四層の天守を備えた平城。絵図を詳しく説明していたら1日かかります。どんどん行きますから、皆さんの方から声をかけて下さい。」と室谷先生は話を始めた。

 

戸田時代の絵図。

 

1)寛永十二年(1632)8月2日、戸田氏時代の城下町を描いた年代の判明する最も古い絵図。侍屋敷に戸田家家臣名が見える。

2)城の南に4つの砂州がある。情報量の多さや描画の詳細さから江戸初期の絵図では最も重要な絵図。

3)2番目の絵図を簡略化したもの。一方、文字情報が多い。城下を通る街道筋が示されているのが特徴。

 

青山時代の絵図。

 

1)寛文六年(1666)頃の絵図。寛文4年(1664)の尼崎城郭・城下町の改造が終わってから,築地移転が終わっていないころの景観。

2)寛文十年(1670)絵図。最も正確な絵図。城下町内で持ち回されてきた。築地町・出屋敷の完成過程を示している。メモリアルな絵図。

 

松平時代の絵図。

 

1)享保元年(1716)の絵図。残された最も古い尼崎城補修絵図。9月18日は本願の提出日。

2)尼崎城下家臣屋敷図。最も人名が多い。大物町の常念寺が描かれている。享保5年(1720)の景観と思われる。

3)尼崎城分間絵図。享保年間の前半(1716~25)の景観。尼崎城の外観を時計回りに描いた表巻と内側から半時計回りに描いた裏巻の2巻。内側を描いた裏巻には実測値による細かい長さ、距離などの数値がを記載されている。

4)尼崎城下風景図は文化12年(1815)~文政5年(1822)頃の尼崎城下を南西の上空から画いた鳥観図です。家並み細部まで描かれており、専門の絵師の手によると思われる。

5)尼崎城天守閣及び櫓図。本丸の櫓が81.25分の1、亥之中櫓が32.5分の1.天守は高さ約18m。東西20.7m。天守台の高さ(外)約6m、東西21.5m。南北17.4m。

6)尼崎城之画。明治7年(1874)ごろで尼崎城最後の姿を南東上方から画いた絵。廃城となった尼崎城が解体されて大阪の商人によって持ち出されようとする情景が描かれている。

 

駆け足で見ていただきましたが時間をオーバーしましたと室谷先生は話しを終えた。

 

阪神電車の尼崎駅のひとつ神戸寄りの駅が出屋敷駅。尼崎城の侍屋敷の外にあるので出屋敷。恥ずかしながら駅の名前の謎がはじめて解けた。貴重な機会をご用意いただいた西宮文化協会事務局の皆様にひたすら感謝である。(了)

 


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