無名の人が造る日用品の中にこそ真の美しさがある、という思想を提唱したのは柳宗悦です。その主張を表す「民芸」とは、柳が陶芸家の浜田庄司、河井寛次郎と共につくった言葉で、彼らは1925年から「民芸」運動を本格的に開始します。
「民芸」という考え方の中心は、「用の美」(実際に用いることの中に美はある)です。「用いる」ということを、意識化―自覚化することで、新しい世界を開いたのです。
自覚化することで、「用いる品々」は、通常の「芸術作品」を超える可能性を持ちました。個人の作家は、自我―個人性を表現する小さな世界から解放され、歴史の中で無意識のうちに積み重ねられてきた人間の生活に根ざす大きな普遍性の世界に通じる道を、この「民芸」という思想の中に見たのです。
『益子参考館』に見る浜田庄司の作品の大きさー深さは、自我を克服することの素晴らしさを教えます。自我の克服とは、自我の否定ではなく自我の解放です。解き放たれた心は、自然法爾=真の自由を得るのです。
「用いる」ということを、生活の中で追求していくとき、自ずと生じるのが、「遊び心」です。「用いる」ことを自覚したときに生じる「遊び心」は、生活の内側から湧き上がるほんものの「遊び心」です。人間の生を華やかせ、色づかせるものです。
民芸という思想が生み出す「遊び心」は、通常の「遊び心」ではなく、根のある「遊び心」、パワーを生み出す「遊び心」です。それは、克服された自我-解き放たれた心がつくる自由の世界、伸びやかで自然、愉悦の世界です。
「用いる」ことがそのまま「美のイデア」に結びつく至福=あそび。それが本来の「民芸」思想の真髄なのではないでしょうか。
「神様に遊ばせてもらっている」棟方志功
2004年11月8日
「民芸」という考え方の中心は、「用の美」(実際に用いることの中に美はある)です。「用いる」ということを、意識化―自覚化することで、新しい世界を開いたのです。
自覚化することで、「用いる品々」は、通常の「芸術作品」を超える可能性を持ちました。個人の作家は、自我―個人性を表現する小さな世界から解放され、歴史の中で無意識のうちに積み重ねられてきた人間の生活に根ざす大きな普遍性の世界に通じる道を、この「民芸」という思想の中に見たのです。
『益子参考館』に見る浜田庄司の作品の大きさー深さは、自我を克服することの素晴らしさを教えます。自我の克服とは、自我の否定ではなく自我の解放です。解き放たれた心は、自然法爾=真の自由を得るのです。
「用いる」ということを、生活の中で追求していくとき、自ずと生じるのが、「遊び心」です。「用いる」ことを自覚したときに生じる「遊び心」は、生活の内側から湧き上がるほんものの「遊び心」です。人間の生を華やかせ、色づかせるものです。
民芸という思想が生み出す「遊び心」は、通常の「遊び心」ではなく、根のある「遊び心」、パワーを生み出す「遊び心」です。それは、克服された自我-解き放たれた心がつくる自由の世界、伸びやかで自然、愉悦の世界です。
「用いる」ことがそのまま「美のイデア」に結びつく至福=あそび。それが本来の「民芸」思想の真髄なのではないでしょうか。
「神様に遊ばせてもらっている」棟方志功
2004年11月8日