思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

実に見事な論説ー「君が代」は民主制社会の国歌ではない。

2006-05-12 | 社会思想
以下は、1999年12月14日の東京新聞のコラムー「大波小波」です。
実に明晰な論説なので、古いものですが以下に記します。この論説への反証は不可能でしょう。

『(日の丸については、千年も前からある図柄であり、問題はない)
問題は君が代にある。
幕末以来国内に駐留した欧米列強の兵士がみな軍歌を持っており、出来たばかりの日本国軍にも天皇を迎える敬礼曲が必要だとして設けられたのが君が代だった。
あくまでも「大日本帝国」の「統治者」としての天皇を讃える軍隊の礼式曲であって、当時の日本人は誰も国歌とは考えなかった。
それが昭和以降の「天皇の国家・国民」という国体イデオロギーの中で、国歌 扱いされ始めたのである。
だから、「国民主権」「象徴天皇制」の戦後民主主義や、来るべき新世紀の国際化の時代に、君が代はそぐわない。あらためて「天皇の国家・国民」を強調することになるからだ。
 天皇と国家とはまったく別次元の概念であり、自らの国家観を対外・対内的に表明するために国旗・国歌はある。十分に議論をつくさないまま、党利党略がらみで性急に法制化した政治家の短慮は何度問われてもよい。』

「君が代」を強要する愚かさは、この論説だけで十分に了解されるはずです。
石原都知事を始めとする愚かな保守主義者たちには、猛省を促しておきましょう。
国家主義のイデオロギーを振りまき、権力を乱用する反・民主主義者を政治の舞台から降ろすことは、私たち「民」の義務だと思います。

国歌は「さくら」にしましょう。日本的な華やかさをもつ古歌、移ろい行く四季ー悦びの風土をもつわが国にふさわしい歌ですから。荒川静香の金メダルの時、もし「君が代」ではなく「さくら」が流れていたら、世界中の人々が皆その情緒豊かな音楽に深く感動したでしょうね。

武田康弘



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