思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

表層知に支配される愚かさー民知は響存としての実存を生む。

2006-05-18 | 恋知(哲学)

知っている=ただその名前と輪郭線だけを知っている、という知り方を身につけた者が優秀=エリートとされるのが、現代の日本社会です。

例えば、文学作品の名前を知っているーあらすじ紹介を瞬時に読んで知っているのと、文学作品を味読する=文学体験を持つのがまったく異なるものだというのは、誰でもが分かるでしょうが、文学の感動―読むことの悦びを知ることは、受験成績をあげるには、「障害」にしかなりません。文学作品もせいぜい「実」を伴わない情報として速読するのが「正しい」とされるのが現代受験主義のもつ狂気です。

ほんとうのことは何も分からず=感じ知るという知の土台を喪失させた知の所有者にならなければ、東大を頂点にする「エリート」校に入ることはできません。逆に言えば、そのような「エリート」校の入学者は、輪郭線だけで、深い「実」のある知を身につけていない人間であることを自ら証明しているとも言えます。彼らは、受験システムにうまく乗っただけで、真実のことは何も知らないのです。

いま、文学を例にあげましたが、すべての知がこのように実感を伴わず、「腑に落ちる」ことがないままに浮遊する知として存在するとしたら、それはどれほど愚かしく危険であることか、これは身の毛のよだつ事態です。しかし、この「不幸しか生まない知」によって成立しているのが、われわれの住む現代の日本社会です。

事実学だけで意味論の探求をしない試験秀才=本質的なことは何もしらない愚かな人間が「エリート」とされる!そういう種類の人々が社会の上に立ち、政治を牛耳り、表層知によって「教育基本法」や「憲法」の理念を変えようと企む。
内容貧弱で輪郭線だけーカタチとウワベだけの生活を営むニセモノ人間たちで満ちた国の住人は、全員が「負け組」でしかありません。

深い心の声を聴き、その内奥の声に応える自分をつくりながら生きるという「生の原理」に忠実に生きる以外に、幸せが来ることはありません。不幸になるために生きる?苦しむために生きる?家系や組織や国家のために生きる?というような異常な「お頭」の持ち主以外のまともな人間は、誰でもエロース・悦びを目がけて生きるのです。深い納得の知は、それを可能にするための条件であり、またその知は、エロース・悦びそれ自体です。

「民知」とは、その自己の悦びを他者への「呼びかけ」によって広げていく運動です。響き合う人間としての「実存」を鈴木亮さんにならって「響存」と呼びましょう。響存としての実存の生は、輪郭線の知に支えられたカタチ優先の不幸な人間と社会を変えます。深い納得の知=民知が響存としての生を生むのです。

武田康弘


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