思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

民主制社会の本質は、民権力です。

2006-05-08 | 社会思想

民主制の本質は一口で言えます。「民・権力」です。
権力行使の仕方と内容が、ふつうの多くの人々=「民」の生活を安定させ、よくしていくこと=個々人の悦びや楽しさを増やしていくことにプラスになるように権力を行使すること、それが民主制社会です。

したがって、そこでは、ある特定の習俗や思想を求められません。例えば「愛国心」を持つべきだ、という思想教育をすることは認められないのです。私は日本がとても「好き」ですが、その好きの内容は、自然な「親しみの感情」であって、「日本主義」とは違います。また、日本の伝統の中にも、いいな~と思うものと、変えないといけないな、と思うものがあります。ふつうの人々の生活に合わなくなった想念や習俗は変える、といより変わっていくのが自然です。それを教育の力で変わらないようにするというのは、ひどい蛮行です。

個人の自由な想念が羽ばたき、囚われのないのびのびとした言動が増せば、その社会には、活気がみなぎり、「国力」が増すのです。個人の思想・発言・行動が活発になり、政治や権力や体制への批判が保障・歓迎・奨励されるのが、ほんとうの「よい国」だといえます。経済格差は減らすが、考え方や生き方の自由は増やすというの「民・権力」の思想です。

民主制社会で権力を行使する主体は、ふつうの生活者でなければなりません。特定の分野の専門家としての視点や、宗教・信条という立場からの権力行使は禁止されるのが、民主制社会の原則です。大きな資産の持ち主もふさわしくありません。
特定分野の専門家も、専門家としての立場や見方ではなく、一人の生活者としての視点から政治に参加するのです。これは「民・権力」を本質とする社会の原則です。

「民」の立場以上の立場は存在しないという大原則が崩れれば、民主制は終わってしまいます。日本の官僚支配社会は民主的とは言えません。専門知(部分知)ではなく、民知(全体知)という生活世界の知によらなければ、民主政治は不可能です。生活世界の経験に根を持ち、そこから立ち上げる知に依拠する以外に方法はないのです。当たり前の話ですが、専門知は総合判断に役立つところにのみ意味と価値があるわけです。それ自体が目的にはなりません。

武田康弘


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