思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

あなたは、人間を「理解できる」と思っていませんか?

2006-05-30 | 恋知(哲学)

あなたは、人間を「理解できる」と思ってはいないでしょうか?
人間の心は、肯定し合い・受け止め合い・親しい交わりをもつことで、悦びを生むことができます。
しかし、「理解できる」と思うのは、傲慢ではないでしょうか?

理解できると思うから、自他の心を私の思い通りにしよう、さらには支配しようとするのでしょう。
人間とは、皆が等しく(少なくとも可能性としては、哲学の用語で言えば存在論的には)「主体者」であり、誰かに操作操縦される「客体」(ドレイ)ではないのです。
主体同士の相克やまたは相和が人の生きる原理であり、システム内にはめ込まれた部分品ではありません。「もの」ではない、主体=心を知解・分析することは不可能です。

自分であれ他人であれ、人間を理解=知解することはできません。了解すること=分かり合うことや承認しあうことができるのであり、生身の生きた人間を知的対象として分析するのは無意味、とうよりも、百害あって一利なしです。

そもそも人間を理解=知解しようという動機が生じるのは、了解できないからです。はじめから人間を客体(もの)として見ようとする冷たい視線が存在していることになります。
これは、近代学問(自然科学)の方法を、人間を知る=了解するという知のあり方と同一視する悪弊がもたらすものです。だれもが学校教育の中で、知らずに身につけてしまう「客観主義」的な見方を人間にあてはめ、それが当然と信じるのは、とても怖いことです。この深い洗脳状態から覚める努力=人間の見方・知り方のコペルニクス的転換が必要です。

了解できないときは、理解しようとするのではなく、いつかなんとなく分かる時が来るかもしれないと思いつつ、待つこと・放っておくこと・黙って見ていること、私の思いを何気なく提示することです。自他を追い詰めずに、」ふぁ~」としているのに勝る方法はありません。言語化せずにイマジネーションの次元で「想う」に留めることです。ただ見ている、そっと見ているだけ・・・。

なんでも理解=知解できると思い、分析しようとするのは、人間に対する冒涜=根源悪であり、底知れない不幸を招来するだけです。心の世界は、ことばや絵や写真やものや音や・・・として表現することができるだけであり、知解・分析は不可能です。人間がよく生きる上で、何よりも重要な心の世界は、ただ了解されるのみ、なのです。

どのような科学(学問)も、解析不能な人間の心の世界の上に築かれているという深い「おもいなし」が必要です。

(蛇足ですが、最近流行の「脳科学」は脳に対する科学であり、こころという価値と意味の世界とは直接関係しません。こころではなく、こころを生み出すメカニズムの探求です。繰り返しますが、人の生きる意味と価値の世界=こころは、知解・分析の対象とはなりません。それは創造されるもの、行為されるもの、表現されものなのです。)

武田康弘

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ミクシィ内のコメントを以下に貼り付けます(6月9日)

aBeBe (阿部憲一)

人は変えれられない。自分が変わるんですね。

一人ひとりが主体ってことだと、相手との関わりは
やさしさ、友情、協力、という気持ちが自然と湧いてきますね。
そして、主体(≠モノ)としては、責任感、納得、というものを
強く感じるようになる。
自分に厳しく、人にやさしく。とは良く聞く言葉ですが、
原理的(よくよく考えてみるとそれ以外は言えないという意味)に考えると、スッキリしますね~。うーん、楽しい生き方だ。
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タケセン

阿部君
よいコメント、ありがとう。
思想ー言葉での整理以前の、もっと深いこころの層に「正直」に生きる、そのさわやかで気持ちのよい「生」を共有=了解し合う人生を歩みたいですね。
世間体にすぎないものが、人生の本体になるようでは、生きている意味がありませんから。
民知が支えるよき「生」です。
武田





コメント
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