思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

江戸城に住む天皇家!・・・至高のよきものとは心の内部にのみ存在する。

2006-05-27 | 私の信条

神田須田町に生まれ育った私は、幼いころから、近くにある「皇居」の存在がなんとも不可解でした。税金で暮らしている皇族と呼ばれる一族が、なぜ、超特別待遇で、意味不明?の特別な敬語で遇されるのか?民主主義とか人間の平等の理念とは、まったく異なる存在が、全国民統合の象徴!!??というのは、なんとも気持ちが悪くなるような話だと感じていました。やはり、平将門を主祭神とする「神田明神」のせいでしょうか?(笑)。

この気持ちは、54歳になった今も少しも変わりませんが、少しも変わらないことは、年を重ねてさまざまな人生経験を積んでも、心と頭が汚れず穢れていない証拠でしょう(笑)。とても誇りに感じています。


明治維新のときに、京都から出張させられて江戸城に住まわされた天皇一家が、民主主義に変わった戦後もなぜ他人の家(大田道灌がつくった、天皇家とは何の関係もない城)に住むことを政府によって強制されるのか?なんともひどい話だと私には思えます。

「日本の伝統を大事にする」といのならば、天皇家はもともとの家、京都御所に帰られ、歴史的・文化的存在として遇されるのが「正しい」のです。こんなことは、わざわざ論じることもないほど当たり前の話でしょう。
(詳しくは、「皇族の人権と市民精神の涵養」を見て下さい)

きちんと天皇家の人々の人権も保障し、一人の人間としての尊厳が与えられるのが現代世界の常識のはずです。わが日本人の多くが、もう少し、ふつうにまっとうに考える頭を持っていれば、明治政府(山県有朋ら)が日本の伝統を壊してつくりあげた不自然な制度=想念に自他を縛り付けることもなくなるでしょうに。

単なる「事実学」=試験勉強・学問ではなく、日々の体験を踏まえ、自分の頭を悩ませて考える「意味論」としての勉強をしないと、わが島国・日本は、世界の孤児になってしまうでしょうね。アジアの国であり、その文化を共有するわが国が、アジアとは距離を置き、まったく異なる風土と文化のアメリカに追随するだけというのでは、バカみたいです。

話が少しズレましたので、戻します。

とにかく、一番大事なのは、「至高のよきもの・美しきもの」とは、私たち一人ひとりの内部にあるのであり、外にはないことの明晰な自覚です。自分の主観を深く掘り進めていくこと以上の価値はどこにもありません。これは生の原理です。横に流されて浮遊したり、外部に絶対を求めて硬化する精神には、内的なよろこび・充実がやってくることはないのです。歴史的な一家族に「絶対」・「超越」を見るような思想=想念は、人間を幸せにしません。

武田康弘


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