言語による思索と交流=ほんとうに「生きた言葉」を用いるのに何より大切なことは何か?
それは、言語以前の「感覚や想像世界」を豊かにすることだと思います。
皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、です。
【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組む。その基盤を広げ強めることが、【言語による思索と交流】のためにも何より大切。わたしは、そう確信しています。
言語を先立てれば、言語は硬直化して死にます。先立つものは、こころ=感覚とイメージの世界のはず。「言語中心主義」に囚われていると、言語による思索も、狭く固い「言語 内 思考」に留まり、事象や事態や物事を「言語形式」の枠内でしか捕まえることが出来ず、ことばを増やすほど却って事象や事態や物事は見えなくなっていきます。本質からはどんどん外れ、誤魔化(ごまか)しの緻密化、一人よがりの衒学(げんがく)趣味に陥るだけです。
「哲学者とは哲学することで馬鹿になった人種のことだ」では、悲しく愚かです。
本を読み、あるいは情報を収集するだけでは、事象や事態や物事を掬(すく)い取るように掴(つか)むことは出来ず、有用な知は得られません。皮膚感覚やイメージ喚起力が弱ければ、「馬鹿になった人種」でしかないのです。
「言語による思索と交流」を豊かで意味深いものとするためには、【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組まなくてダメです。
皮膚感覚で捉えること、
感じ知ること、
イメージを膨らませること、
全身で察知すること、を日々の生活の中で心がけたいと思います。
以下は、以前に書いた『心身全体による愛』です。
子育てー教育の基本は、心身全体による愛です。
文字通りの触れ合い、だっこしたり、おんぶしたり、ほほ擦りしたり、ふざけ合ったりすること。また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のあることばで接すること。一言で言えば、心身全体による愛です。
理屈以前の身体的な触れ合いこそが核心です。断言します。それがなければ、まともな人間には決して育ちません。
愛とは、心身全体によるもの。子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。
子どもを「言葉」だけで教育できると思っている人は、全くの能天気です。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足からではなく、「愛」の不足からなのです。
自分を自分で肯定でき・受け入れ・愛することができなければ、他者を肯定し・受け入れ・愛することは、不可能です。他者を肯定できなければ、中身のある人間付き合い=真の人間関係は決して生じません。
人間関係とは、言葉で教育できるものではありません。愛や思いやりや優しさは、具体的に態度で示すことができるだけです。教え込むことが不可能な領域です。
大人である私たちが、形だけで他者と関わる外面人間であっては、よい子は育ちません。本気・本音で他者と関わる勇気が必要です。愛の心があれば、ぶつかり合いは生産的になります。しかし、勝ち負けの意識が支配する愛のない不幸な心は、すべてを壊してしまいます。
「心身全体による愛」は、人間の様々な営みを「よい」ものにするための絶対の条件なのです。言葉―理屈ではなく、実践です。そのように生きること、態度で示すこと、それ以外の方法がありません。
子育てー人間を育てる基盤は、「心身全体による愛」にあるのです。心身全体で愛し生きることのできる人間を育てなければ、私たちの社会は砂漠化して生きる意味が消えてしまいます。
武田康弘