みな人は、言葉にならない「想い」を抱えて生きていて、それは何よりも大事な実存の基盤ですが、言葉という一般化のアイテムを通じて「私」の想いを伝え、考えを述べ、表現することがなければ、「共に生きる」ことはできません。その努力を止めてしまうと、人は既存の組織体の中で「役割」をこなすだけとなり、社会人=公共人ではなく、団体人=組織人に陥っていきます。言語化(一般化)する努力を怠ると、逆に、仮面を被った「一般人」に陥るというわけです。
心の「想い」の世界・実存の生は、言語化という「一般化」の試練を経ないと、狭く固着し、個人性の開花・深化(普遍性)が得られません。自分で自分を抑圧する世界に入り、自我の内的成長を阻害させてしまう結果、自他のよろこびを生むことができなくなるわけです。
幼児が階段を上る=わがままの克服とは、私の世界を放棄することではなく、私という中心を豊かなものにし、私を実現することですが、そのためには、言語化という一般化の努力が必要です。たしかに一般化は、私の黙せるコギトー(自己意識)を抑圧する作用もありますが、しかし、その努力なしには、黙せるコギトーはよきものを生み出せないのです。私は私であることをやめないで、私の内実を豊かにしつつ、公共人になるーそれが人間精神の健康な成長です。
そのためには、【自問自答】と共に、【生きた対話】が必要で、それをわたしは実践(白樺・民知)しているのですが、多くの人が、実存から出発する自由対話=実存を活かす公共性の試みを生活の中で実践されることを願っています。公共性の獲得とは私を現実において活かすことであり、私を滅することとは反対です。空想ではなく、現実に私を活かすこと、実存の生を広げ豊かにすること、そのためには言葉によって一般化する努力、言葉にならぬ想いを多少とも言語化する・対話する努力が必要です。
心―実存世界の言語化を諦め、放棄すると、逆に個人性のよさは開花しません。個々人から立ち昇るパワー・面白み・魅力が減じてしまい「一般人」に陥っていきます。それが多くのわが日本人の現実ですが、ほんらい個性的に生きる他はない生身の人間が「一般化」してしまえば、生の悦びは消えるほかありません。
武田康弘