思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

小林正弥と武田康弘の議論(三元論をめぐって)

2009-11-25 | 社会思想

以下は、「公共哲学ml」における代表の小林正弥さんとわたしとのやりとりです。公共哲学は、皆の哲学ですので、皆さまの忌憚のないご意見をぜひお寄せください。簡単な感想だけでも結構ですので、よろしくお願いします。)


小林正弥です。
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武田さんたちと実践的には私の立場は近いと思いますが、学問的な概念構成においては差が存在します。この論点における私の立場はほとんど山脇先生と共通ですが、山脇先生の言われている趣旨を私なりに整理して補足的に説明してみます。

●私の考える公共哲学は、規範的側面と描写的・説明的側面を持っており、3元論は武田さんが認められたように説明的に有用であると同時に、規範的にも有用です。

●なぜなら、規範的には私は「公共」という概念に理想を込めていますが、これは「公的」という規範概念とは異なります。通常、「公的」という言葉を規範的に用いるときには、公式とか、正式とか、法的とかいう意味を伴っています。これは現実に実現されます。しかし、「公共的」という理想は完全には実現が困難です。だから、「公共」の理想と現実の「公」との乖離を表すためにも、「公共」と「公」という概念上の区別は有用です。

●なお、ここにいう「公」とは「公共とは異なる官の意思」(武田)ではなく、上記の意味ですから、国民国家レベルでは「公≒国家」となり、「公共」と「公」の差異が「公共とは異なる官の意思」に相当します。

●国民主権の原理において、「公」が「公共的」となるべきだという規範論はもちろん私も主張するところですが、だからといって、「公」が完全に「公共的」になることはほとんど不可能だと思います。すなわち、ルソー的な言語を用いるならば、神ならぬ人間の世界においては、一般意思は完全には実現できない理想なのです。さらに、「公共」が理想として一義的に想定できるとしても、現実の人間にとっては確定困難であり、その意味で多元的な解の候補(多元的な公共)が存在します。

●つまり、原理的な問題として、「公共に反する公があって良い」のではなく、「公は可能な限り、公共に即すべきだが、人間がいくら努力してもこれは完全には実現できず、公共の要請とは乖離した公が残る」という冷静な認識が必要だと思うのです。

●「公共」という理想が完全に「公」に実現したと考える瞬間に、権力の奢りや危険が始まります。「公共」とは、「公」との対比において、人間性の限界を自覚し謙虚になるために有用な概念です。法的には当然「公的」は実現しなければならないのですが、政治的には「公共的」は可能な限り実現を目指すべきものであって、完全には実現できないものなのです。山脇先生の表現は確かに時に激しいですが、法制面のみを見る思考の「傲慢」さの指摘は、人間としての謙虚な認識に相通じると思います。

●したがって、「公共性」という理想は「公」とは異なる理想を表しますから、3元論は規範論においても有効です。ある意味では、「公共性」が理想であり、「公」は、その理想を可能な限り実現すべき現実であるという点において、「公共」と「公」の双方が概念として存在することによって、私たちは現実の中に理想を実現するという「理想主義的現実主義」を概念的に表現することができるでしょう。私たちの公共哲学プロジェクトにおいては、理想主義的現実主義は基本的な発想であり、実践的にも重要な意味を持つのです。

              小林正弥
         公共哲学ネットワーク代表
        地球平和公共ネットワーク代表
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小林正弥さん

議論の混乱を防ぐために、
現実の政治・社会問題と、民主主義の原理についての話を分けて、まず後者について書きましょう。

最初に、基本的な認識の違いですが、「公共」とは、小林さんが主張されるような理想的な概念ではありません。
市民の公共は、その都度合意される内容でしかなく、理想でも規範でもないのです。

市民から選挙で選ばれた市民の代行者(代理人)である政治家は、市民の公共(公論・民意・一般意思)につき、政治を担うわけですが、それを円滑・確実に進めるための実務を担当する官僚と官僚組織(=官)は、本来、その民意に従って仕事をするだけです。

(そのようになっていない現実とその原因については別に論じる必要があります)

小林さんが言うように「公共の理想が現実の人間にとって確定困難」なのは当然ですが(そもそも公共の内容に「理想」など存在しません。そうだからこそ、忌憚のない「自由対話」によって妥当を導く営みが必須なのです)、そのことと、公と公共という二つの概念を使い分ける(三元論)という話とはどう関係するのか、意味不明です。問題の核心は、公共的な意見の複数性を踏まえて、どのようなその都度の妥当を導くか?という手法であり、仕組みづくりであり、その実践であるはずです。

「公共の要請とは乖離した公が残る」(小林)という言い方は、問題の本質を把握しそこなっているために出てくる言い方ではないですか。「公共の複数性」という現実があるために、社会の全成員が納得する結論を導くことは困難なのですが、それが、公と公共という二つがあるという仮象を生んでしまうのでしょう。
以上、簡単ですが、後者についてのお応えです。


武田康弘

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以下は、コメント覧です。

公と公共 (荒井達夫)
2009-11-25 22:34:11

通常、「公的」という言葉を規範的に用いるときには、公式とか、正式とか、法的とかいう意味を伴っています。これは現実に実現されます。しかし、「公共的」という理想は完全には実現が困難です。だから、「公共」の理想と現実の「公」との乖離を表すためにも、「公共」と「公」という概念上の区別は有用です。(小林さん)

国民国家レベルでは「公≒国家」となり、「公共」と「公」 の差異が「公共とは異なる官の意思」に相当します。(小林さん)

「公共性」が理想であり、「公」は、その理想を可能な限り実現すべき現実である。(小林さん)


これらの説明は、全くおかしいと思います。
現実の政治行政における「公」と「公共」の取扱いを見れば、誤りと言ってもよいでしょう。

なぜなら、

・「官は、公共の利益の実現を目指さなければならない」
・「官は、公の利益の実現を目指さなければならない」

現実の政治行政では、このように「公」と「公共」の両方が同じように使われていますが、「公式、正式、法的」とは無関係だからです。

また、「公」は現実であり、「公共」は理想である、という説明も変です。到底、普通の日本語の使い方ではないでしょう。

「公の利益」は「官により公式、正式、法的に実現される現実の利益」で、「公共の利益」は「そうではない、完全には実現が困難な理想としての利益」である?????

これでは、まったく意味不明です。

主権在民の日本国憲法下、現実の政治行政においては、「公共の利益」も「公の利益」も「社会一般の利益」という意味です。「公」も「公共」も、「社会一般の利益」に関係するという点で区別はありません。

だからこそ、国家公務員法96条「職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」という理念規定があるのです。(この条文で、「公共の利益」を「公の利益」と書き換えても、意味はまったく変わりません。)


上記のことは、「公の秩序」と「公共の秩序」を例にしても、同じです。

(公序良俗)
第90条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

これは、民のルールである有名な民法の基本規定ですが、ここで「公の秩序」とは、「社会一般の利益」の意味で使われています。

「公の秩序」とは「社会一般の利益」、だから、それに違反する行為は無効、となるわけです。

この「公」を、小林正弥さんのように、「官の」、「公式・正式・法的な」、「現実的な」との意味で理解するならば、普通の人にはわからない、まさに意味不明な造語になるでしょう。

「公の秩序」とは、「官により公式・正式・法的に実現される現実の秩序」である?????

これでは、民法の正しい実施は不可能です。「官」が決める「秩序」に違反する行為は無効、ということになるのですから、まるで戦前の日本のようです。もちろん、そのように理解する社会的な必要性もないし、実益もありません。ひどく有害なだけです。

現実の政治行政では、普通の人が理解できる普通の意味で言葉を使わなければ、意味不明な有用でない議論にしかなりません。また、ひどく有害な結果を導くことさえあるのです。
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原理につくことが最も現実的 (タケセン=武田康弘)
2009-11-26 22:11:34

社会に関する思想、特に討論的対話については、さまざまな場で、できるだけ広く公開する。これは、公共の哲学を考え・語る上での原則です。閉じた仲間内で公共や哲学を語る、ではブラック・ジョークにしかなりませんから。
その意味で、荒井さんが実名で積極的に発言されているのは、とてもよいことだと思います。公共を語り、哲学を語る人は、また公共性の高い仕事につく人は、まず第一に自分自身が自由対話・討論をしっかり実践しなければならないはずです。

前置きはこのくらいにしてわたしの考えを述べると、
わたしの社会思想は、民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考えるというものですが、
小林さんや山脇さんは、現実・現状から出発し、どうすれば民主主義をよりよく実現できるか、と考えているようです。
わたしは、近代民主主義が憲法によって保障されている国家の場合は、まず、その原理・原則を確認し、そこから現状のありようを見るという方法を取らないと、有用な分析や優れた問題解決の指針をつくれないと考えています。
なぜならば、民主主義以前の社会の場合は、社会の成員は、みなが主体者とは位置づけられておらず、支配者が存在し、彼らの都合により社会全体が動かされましたが、
民主主義国家の場合は、主権者を人民(国民・市民)とした民主主義思想の下に法体系がつくられ、全成員が等しい権利をもっているからです。
原理としての権利から出発することが最も現実的な力をもつ、それが民主主義社会の特質であり、利点なのです。
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希望します (荒井達夫)
2009-11-27 00:20:48

今回のやり取りは、公共哲学の最重要の論点に関する非常に公共性の高い、社会的に有意義な内容のものですから、オープンにすべきです。

また、このような公共哲学の核心に関わる議論は、本来は、公共哲学ネットワーク自らが、誰でも参加できる公開のブログを開設して行うのが良いと思います。

是非、そうしていただけるよう、希望します。
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『公共』とは生々しい現実 (古林 治)
2009-11-27 22:06:21

事業仕訳で今、世の中はケンケンガクガクです。公開の場で官僚、政治家、民間人、学者入り乱れての議論。その結果に対してまたさまざまな集団、グループからの異論・反論。こんな風景は今までこの国では見たことがありません。この風景こそ『公共』が形成される生々しい現場なのでしょう。
さまざまな異論・反論が出てくるおかげで、ものごとは立体的に見え、徐々にその本質を現してきます(くるはず)。言い換えれば、妥当な『公共』が導き出される可能性が高いということです。もし、そのケンケンガクガクが中途で制止されなければ、ですが。

ほとんどの人にとって、このような経験は学校でも実社会でも体験したことのないものです。
それゆえに『公共』を中に浮いた感じのようにとらえてしまっても致し方ないかもしれません。
その実体験希薄のまま(言語上のみの)思考を重ねていくと言葉(概念)は暴走します。言葉によって思考する私たちは、このことに自覚的でなければいけません。特に言葉によって生計を立てる人はなおさらです。

私もまた、『公共』とは小林さんが言うような理想とは違って、生々しい現実そのものだと思います。私たちの生きる『意味と価値の世界(生活世界)』で、議論の上に醸成される公論・民意そのものです。(その妥当性は公開性にかかっていると思いますが。)
民主制の世界では、その『公共』に従ってサービスを行うのが官です。これが基本的な原則でしょう。それを徹底していくほかはないはずです。
そう考えると、『公』と『公共』を分ける考え方はやはり不自然です。
民意(公共)とは異なる、江戸時代の公=お上・御公儀や天皇主権の時代の公=天皇制国家は今や認められませんし、まして『公共』とは別の『公(官?)』を認めるわけにはいきません。『民主制に反するそのような考えはおかしい!』と言い続けるほかないでしょう。
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新しい公共 (荒井達夫)
2009-11-27 23:11:16

※古林さんの言うように、「『公』と『公共』を分ける考え方はやはり不自然」ですし、「『公共』とは小林さんが言うような理想とは違って、生々しい現実そのものだ」と私も考えています。

これに関係する話として、鳩山総理の「新しい公共」についての説明があります。


第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

「「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。」


つまり、「「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、」ということです。

そうであれば、「古い公共」では、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担っていた、と鳩山総理は理解していることになります。

したがって、「公共」については、古い新しいを問わず、「官」が担うことは当然の前提として理解していることになるでしょう。

また、「官」が担うのが「公」であって、「市民」が担うのが「公共」と理解していないことも明らかです。
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原理からが現実的 (綿貫信一)
2009-11-29 00:41:08

「わたしの社会思想は、民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考える」(タケセン)

この意見に全く賛成です。「現実・現状から出発し、どうすれば民主主義をよりよく実現できるか」という道順では、まず何もなし得ないものだと思います。

民主主義にそぐわない制度を変えていくことは必要なことではありますが、そのこと自体が何らかの理念や原理を生み出すことはありません。
そして現実・現状から出発すると、複雑に多重化された現実問題の山に絡め取られて身動きが取れなくなり、それこそ方向性を失いそうです。「あれもしなくちゃいけない、これもしなくちゃいけない」で目が回りそう。

「民主主義の原理である主権在民の思想を踏まえ、その地点から現実問題を分析し、その解決の方途を考える」(タケセン)ことをしないと、複雑化した現代社会では動きようがないと思うのです。




コメント (10)
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