思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ハーバード大学・サンデル教授の討論的授業と白樺教育館

2010-04-05 | 教育

昨晩の教育テレビで、高名な公共哲学の学者であるサンデル教授のハーバード大学における討論的授業(ただし大人数ですが)を放映していました。

討論・対話式授業は、『白樺教育館』では34年前から続けていますが、ハーバード大学よりも優れている点は、少人数で行っていますので、ディベート的な要素を排除して、純粋に哲学的対話=全員参加による意味論・本質論の探求ができるところです。昨年11月に日経(日本経済新聞)にも紹介された通りです。

以下は、昨晩の番組を見ての私の意見です。この番組で解説を務めていた千葉大学の小林正弥さんの主催するML(pub-citizen@mlc.nifty.com)への投稿に少し手を加えました。


議論文化、は「白樺教育館」ではごく日常的なことで当然なのですが、一般の日本の学校教育にはありません。その意味ではさすがにアメリカです。大学という学校教育の場で議論授業が行われているのにはとても好感を持ちました。

ただし、サンデル教授の議論の方法は、一般のアメリカ人と比べれば哲学的ですが、わたし(白樺教育館)の基準からすれば、ディベート的要素が強いと思います。

ここで彼は、遭難船の小船における殺人の例で道徳を論じ、それを社会全体のありようを論じる場(ベンサムの社会思想)にあてはめて考えますが、これは次元の相違を無視した思考・議論と言わざるを得ません。こういう想定はディベート的であり、思考を混乱させます。

遭難船の例で「3人が生き延びるためにひとりを殺した」ことが道徳的か否かを問うていましたが、ここでの実存レベルにおける問いと、どのような思想がよい社会を生むかという問いとは、ほんらい同一次元で語ることができません。

この例で言えば、わたしの見方では、極限状態の中で人は弱いものから順に死んでいきますから、その死者の肉を食糧にするところまでは許されますが、意図して殺すのは許されないのです。しかし、その問題と社会的次元における公平性・公正性を導く思想がどのようなものかを考えることは直接には結びつきません。それは、次元の違う話であり、同一平面(次元)で考えることができません。

このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。次元の混同は、「受験的=平面的=マニュアル的な知」の大変に困った問題ですが、日本のみならず、世界的にも克服しなければならない現代知に共通する課題なのかもしれません。

ともあれ、対話・議論を基盤とするのは、幼い子どもからの知的・心的教育にとっての柱なのですから、本気でこれを進める努力をしなければいけません。白樺教育館・ソクラテス教室の営みは先駆的なものですが、ぜひ、多くの教育機関が真似をしてほしいと思います。


武田康弘
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コメント

マイケル・サンデル氏の討論について (内田卓志)
2010-04-05 23:46:18

武田先生

マイケル・サンデル氏の討論について

サンデルは、テイラーやマッキンタイアと並ぶ代表的コミニタリアンですね。
私も以前ロールズを勉強している時、サンデルを少し勉強しました。ノージックとサンデルが強力にロールズを批判したと思います。サンデルは、ロールズやセンと共に尊敬すべき学者です。
私は、そのテレビを見ていませんので正確には分かりませんが武田先生が書かれた文脈からすると、何でサンデルほどの学者が意味のない究極論を持ち出し討論させるのか私には分かりません。このようなことはたしかに起こりえることとは思いますし、法的には緊急避難となるかもしれません。
「人は人の命を奪うことは出来ない。」これを原理と考えればこのような議論は道徳的にも無意味になると思います。
ただ、アメリカ的な文脈?で「正義のためには人の命も奪うことはやむを得ない」という立場に立つと、道徳論として議論されることになるのでしょう。
日本でも死刑制度があります(脳死・安楽死の問題もあるでしょう)ので議論の余地はあるのかもしれませんね。
それを先生は実存レベルの問題とよき社会の創造の問題との次元の違いと言っておられます。
「人は人の命を奪うことは出来ない」ということは、原理的に完全解決されていない問題なので道徳論(価値)のテーマとなるでしょうが、道徳論を討議するのであればもっと普通の生活の場で起きうるテーマにより討議した方が生産的と思えます。
ただ私見ですが、「人は人の命を奪うことは出来ない」ということを私は、原理と考えたいと思っています。それ故、先生と同様意図して殺すのは許されないと思います。それは戦争でも死刑でもそう思います。このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。
このような問いを立てる意味が正にあるか?ないか?を討議するなら価値があるかもしれません。
私の論法に錯誤がありましたらご指摘下さい。
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よいコメント、感謝です。 (タケセン)
2010-04-05 23:54:30

丁寧なコメントを頂き、とても感謝です。

「このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。」

は、まったくその通りと強く思います。普通の生活の場で正義や公正や公平を考えなくてはいけないのです。




コメント (2)
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