思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わたしが【柳兼子の音楽室】(in白樺文学館)をつくった理由・経緯

2010-04-13 | 白樺文学館

以前に書きましたように、わたしは『白樺文学館』のコンセプトを創る作業に没頭していた時(1999年9月に『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ変更をした直後)1999年の10月に、当時はまったく未知の方であった松橋桂子さんが『柳兼子伝』(水曜社刊)を出版されたことを知り、一読、驚愕しました。兼子は音楽における白樺を一人で代表し、朝鮮と日本各地で開いた数多くのコンサートは深く人々の心をとらえ、それは白樺と民芸運動を経済的にも支えたのでした。

この本が出版されたことで、わたしは、「白樺派の4人」としていた『白樺文学館』の基本構想を、柳兼子さんを加え「白樺派の5人」に変えたのです(白樺文学館の基本理念=「創造の知・我孫子」を参照してください)。

ちょうど、『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へと基本コンセプトを変更したために建物の設計をやり直していた最中でしたので、地下に「柳兼子を記念する音楽室」をつくることにしました。
コーヒーブレイクにある「よい趣味こそ人生最大の得ーわたしの半生」をご覧いただければお分かりのように、わたしは音楽好きのオーディオ少年でしたので(今もなお)、できるだけ忠実にかつ兼子さん声を美しく再現するための音楽室とオーディオつくりに没頭しました。とっても熱く(笑)。
幸いにもオーナーであり、わたしの主宰する哲学研究会の熱心な会員であった佐野力さんの会社(=「日本オラクル」)の店頭公開した株が1000倍もの高値になっていた為、資金に不足はなく、わたしは自由に音楽室とオーディオづくりができました。

実は、兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われたのでした。歌い手としての全盛期のブランクは大きく、ようやく戦争が終わった後には兼子さんの存在は忘れられていました。そのために壮年期の記録がないのです。80歳を過ぎてからの日本歌曲を中心としたLP(文学館がオープンした直後・2001年にようやくCD化)だけなので、できるだけ艶やかで美しい音で再生し、多くの方に兼子さんの魅力、その前例のない深い歌声=歌の意味を掘り下げて曲のイデアに迫った芸術を知ってもらいたいと思い、オーディオ装置づくり(予算は500万円)・音楽室の設計・テーブルとソファーのデザイン・椅子の選定等に取り組んだのです。兼子さんのための音楽室ですから、オーディオ装置とその調音も「兼子チューン」なのです。

兼子さんを白樺派の中心者の一人としたことや、音楽室+独自のオーディオをつくることは、わたし一人の判断でしたが、それから9年が過ぎた今年4月10日、駒場の『日本民藝館』(西館)に『柳兼子記念室』がオープンしました。わが意を得たりです(嬉)。
出会いとはまことに不思議なもの。ちょうど『白樺文学館』構想としての再出発をした翌月に松橋桂子さんの『柳兼子伝』と出会い、貴重なLPを譲り受け、それが「兼子さんのための音楽室」に結実したのですから。

音楽室設計の苦労、オーディオ装置の選定の理由、失敗!とその救済策、テーブルとソファーのデザイン、中津川さんによる取っ手の彫刻、等々の【秘話】については、改めて書きましょう。しばらくお待ちください。

武田康弘

コメント (2)
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