思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

東大総長の式辞ー「大人として守るべきルールについても話し合っていただければ」!?

2010-04-14 | 社会批評

「このMLでしばしばターゲットになっている東京大学の入学式の総長式辞を参考までに添付します。http://www.todai-alumni.jp/gate/2010/04/post-a221.htmlなお、このMLはもうじき閉鎖されるようなので、ここでの議論ができないのが残念ですがーー」

というメールが山脇直司さんからありましたので見てみました。

全体として極めて分明な式辞です。
総長・濱田純一さんの「『正解』に囚われない知性を」は、わたしの主張と共通するもので好感をもちましたが、受験勝者に過ぎない東大生を特別な存在とみる言い方が随所にあり、その点は東大総長の限界を感じます。
また、彼は正直に、「授業で『答え』というものをなかなか教えてくれないなあ」と東大法学部入学時にカルチャーショックを受けたと話していますから、わたしと同世代(濱田さんが3学年上)にしては随分ナイーブな人です。
ただ、それよりも驚いたのは、以下の親に対する言葉でした。


「さて、最後になりましたが、今日この場にお越しいただいている、ご家族の皆さまにも、一言申し上げておきたいと思います。
 お子さんが大学に入ると、親離れ、子離れをしなければいけない、ということがよく言われます。しかし、私は、お子さんの大学への入学は、ただたんに「離れる」ということではなく、親子の間で新しい大人の関係が作られるきっかけであると考えています。さきほど「国境なき東大生」という話をしましたが、お子さんたちは、これから広大な学問の世界の中で、多くの経験を重ねていくはずです。そこには、新しい知識もあれば、新しい緊張もあり、新しい戸惑いもあります。ご家族の皆さまには、そうした新鮮さに満ちた中で大きく成長していくお子さんと、大学生活の話を共にしながら、さらに知的に豊かな、一段と質の高い、親と子の関係を築いていただければと願っています。
 そして、そうした会話の際には、授業のことや日々の生活のこととともに、大人として守るべきルールについても話し合っていただければと思います。薬物の乱用やその他の社会的ルールの逸脱によって、せっかく入学した大学を去らなければならないような学生が、皆さんの中から出るとすれば、それは、とても悲しく残念なことです。そうしたことが決して起こらないように、大学としても皆さんに注意を促していきますが、ご家庭でも折に触れ、お話しいただく機会をもっていただければと思います。」


「会話の際には、授業のことや日々の生活のこととともに、大人として守るべきルールについても話し合っていただければと思います。」―というのには、ほんとうにビックリです。

会話を、人間や社会問題を考える対等な人間同士としての対話ではなく、「大人として守るべきルール」を親が大学生の子に話して下さいというレベルで捉えているのですから、言葉を失いますが、受験勉強だけに明け暮れてきた日本の異様な家族が前提されているからかもしれません。東大生をもつ日本人家庭の恐るべき水準!を世界に示した名(迷)演説とでも言う他ないですね(笑)。

歴史に残るかも、です。

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コメント

硬直しきった青春 (Cmoon)
2010-04-15 11:09:00

式辞の全文を読みましたが、タケセンさんが指摘された部分で、一気にレベルダウン。
まるで、シフトダウンに失敗し、カタカタし始めたクルマのようです。

大学の入学式の式辞らしく、称賛すべき箇所もあるのに、一気に幼稚化してしまった、この部分に関しては、中学校の入学式の式辞なみですね。
言葉を失いながらも笑ってしまいました。

そして浮かんだのは、「全共闘時代に東大学長はどんな式辞を読んだのだろうか……『学生運動を反社会的な行動かどうか、大人として守るべきルールを親が子によく話してください』と言ったのかな……?まさか!!」という独り言です。

しかし、よく考えてみれば、東大生の多くは幼い時から、塾通いや家庭教師をつけられ、受験を勝ち抜き、個で考える時間もなく、大人として成長する機会を失い続けてきたのではないか……ひとくくりにできませんがそんなふうに感じます。
ある東京地検検事の生い立ち、東大に入り検事になるまでの姿を書いた読み物が読んだことがあるのですが、その検事は、その期間、ふれなければいけない大切なもの、ふれることで成長するあらゆるものに、ふれることなくただひたすら我慢して、検事に辿り着くべく身を粉にしてきたようです。
硬直しきった青春……と言っていいと思います。
こうした柔軟性、しなやかさに欠けた学生をたくさん見ているから生まれた、式辞の最後の部分かもしれないですね。

そう考えると笑うどころか、とても哀しく、空しく聞こえてきます。


コメント (1)
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