哲学教師や、哲学書読みの専門家や、哲学マニアではない人にとって求められる優れた哲学(恋知)とは何か?
自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)とはどのようなものか?
わたしは、それをつくりたいのですが、
そのためには、まず、哲学(恋知)とは何か?のイメージをうまく提示することが必要。論理言語でカチッと定義し切れないのが哲学(恋知)なので、比喩・たとえ話しを上手に用いてイメージを喚起しよう。イメージとは、直截に与えられる全的なものだから。それがわたしの考えです。
古典中の古典といわれるプラトンの『饗宴』や、フィロソフィーを定義した『パイドロス』を読むと分かるように、ソクラテスの偉大さは、多くの人にとって切実な「恋」の作用・力動として「考えること(思慮)の意味と価値」を説明(豊富な比喩を用いた問答的対話)したところにあります。
それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりを持ったので、多神教のギリシャ世界とは根本的に異なる一神教の西ヨーロッパ世界においてさえもソクラテス出自の哲学(恋知)は圧倒的な力を発揮したのでしょう。というより、恐らく、キリスト教信仰にとって最も手ごわいギリシャ哲学と全面的に闘わなければならなかった彼らは、精緻で堅固な言葉の構築物をつくらざるを得ないところに追い詰められたのだと言えます。それが却って西ヨーロッパで哲学を発展させることになったわけですが、しかし同時に神学的な歪みももたらしました。異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。
また、東洋思想がギリシャのソクラテス出自の恋知に敵わないゆえんも、同じくそこにあります。
ペリクレスが史上はじめて民主制を敷いた都市国家アテネで、ペリクレスの賢妻が開いたサロンに出入りしていた若きソクラテスが後年、アテネの街で市民との対話を活発に行ったという歴史的事実に、その思想(ディベートを否定し、真実を求めて行う問答的対話)の普遍性の源を見ることができますが、
ソクラテス思想の優位性を生んだ本質は、誰にとっても切実な「恋」をテーマにして「考えること(思慮)の意味と価値」を示し、よく生きる=哲学する生を追求したところにあります。ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
君子に仕える武士の道徳を説いた孔子(儒教)がソクラテスの営為に敵わないのは当然ですが、インドの優れた思想や孔子を批判した老子や孟子でさえ及ばないのは、民主制により花開いた自由人の恋愛に普遍的な価値を見出したソクラテスの思索がもつ強みです。ありのままの人間性に基盤を置く思索=哲学(恋知)の営みは、時代を超えて世界的な広がりをもったのです。
ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。
現代において、白紙に戻して自分の頭で考える哲学(恋知)の営みを多くの人のものにするには、ソクラテスの卓越したアイデアをヒントにして、分明、豊饒、愉快な哲学(恋知)イメージを提示することが鍵である、わたしはそう確信しています。
それにしても西周のつくった言葉=「哲学」は、無粋で困った訳語です。わたしは「恋知」に変えようと提案しています。
武田康弘
自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)とはどのようなものか?
わたしは、それをつくりたいのですが、
そのためには、まず、哲学(恋知)とは何か?のイメージをうまく提示することが必要。論理言語でカチッと定義し切れないのが哲学(恋知)なので、比喩・たとえ話しを上手に用いてイメージを喚起しよう。イメージとは、直截に与えられる全的なものだから。それがわたしの考えです。
古典中の古典といわれるプラトンの『饗宴』や、フィロソフィーを定義した『パイドロス』を読むと分かるように、ソクラテスの偉大さは、多くの人にとって切実な「恋」の作用・力動として「考えること(思慮)の意味と価値」を説明(豊富な比喩を用いた問答的対話)したところにあります。
それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりを持ったので、多神教のギリシャ世界とは根本的に異なる一神教の西ヨーロッパ世界においてさえもソクラテス出自の哲学(恋知)は圧倒的な力を発揮したのでしょう。というより、恐らく、キリスト教信仰にとって最も手ごわいギリシャ哲学と全面的に闘わなければならなかった彼らは、精緻で堅固な言葉の構築物をつくらざるを得ないところに追い詰められたのだと言えます。それが却って西ヨーロッパで哲学を発展させることになったわけですが、しかし同時に神学的な歪みももたらしました。異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。
また、東洋思想がギリシャのソクラテス出自の恋知に敵わないゆえんも、同じくそこにあります。
ペリクレスが史上はじめて民主制を敷いた都市国家アテネで、ペリクレスの賢妻が開いたサロンに出入りしていた若きソクラテスが後年、アテネの街で市民との対話を活発に行ったという歴史的事実に、その思想(ディベートを否定し、真実を求めて行う問答的対話)の普遍性の源を見ることができますが、
ソクラテス思想の優位性を生んだ本質は、誰にとっても切実な「恋」をテーマにして「考えること(思慮)の意味と価値」を示し、よく生きる=哲学する生を追求したところにあります。ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
君子に仕える武士の道徳を説いた孔子(儒教)がソクラテスの営為に敵わないのは当然ですが、インドの優れた思想や孔子を批判した老子や孟子でさえ及ばないのは、民主制により花開いた自由人の恋愛に普遍的な価値を見出したソクラテスの思索がもつ強みです。ありのままの人間性に基盤を置く思索=哲学(恋知)の営みは、時代を超えて世界的な広がりをもったのです。
ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。
現代において、白紙に戻して自分の頭で考える哲学(恋知)の営みを多くの人のものにするには、ソクラテスの卓越したアイデアをヒントにして、分明、豊饒、愉快な哲学(恋知)イメージを提示することが鍵である、わたしはそう確信しています。
それにしても西周のつくった言葉=「哲学」は、無粋で困った訳語です。わたしは「恋知」に変えようと提案しています。
武田康弘