わたしの家の宗教は、親鸞を開祖とする浄土真宗(大谷派)です。
わたしは、自家の宗教には関心をもっていませんでしたが、大学生のときに読んだ『歎異抄』(唯円著)に震撼して以来、親鸞は最も尊敬する思想家になりました。浄土真宗と縁の深い家に生まれてよかった、と心底思いました。もし他宗だったら宗派を変えなくてはならないところでした(笑)。
真宗は、儀式が極めて少なく、特別な「しきたり」はほとんどありません。
それは、死後はみな阿弥陀仏が救って下さり、極楽浄土に往生するという思想から来ています。阿弥陀仏のはからいで誰でもが救われるのであり、「救い」のための修行はいらないのです。阿弥陀仏への絶対他力の心=南無阿弥陀仏。
ですから、真宗でいう回向(えこう)とは、死者が、生者に楽を与える、という思想であり、生きている人から故人へ、ではないのです。故人は極楽浄土に往生しているので、往生している者に対して生者が何かをする、ということはありません。
だから、墓に水や米を供えることもしないのです。また、死者を穢れたものとは見ませんから、葬儀の「清めの塩」などの迷信めいたこともしないのです。
『法事』にも「死者の冥福を祈る」という意味はありません。すでに極楽浄土にいるのですから、冥福を祈るのはおかしな話です。そうではなく、故人を想い、生者がよく生きていくために仏法を聴き・考えるのが、法事を催す意味です。『お盆』も同じで、先祖供養という狭い意味ではなく、先祖を想いつつ、仏法を聴き考えるよろこびの行事なのです。ご同朋ご同行。
真宗には『戒名』はありません。戒名とは、戒律を守ることを誓ってもらうという仏名というほどの意味ですが、故人は、阿弥陀仏によってすでに救われているのですから、戒めることはおかしいのですし、そのような発想を根本的に否定したのが親鸞です。
戒名ではなく、仏の弟子になったという意味で『法名』と言います。2008年に死去したわたしの父は生前に法名をつけてもらっていましが、それが本来のすがたです。「釈實相」といいますが、他宗ではお釈迦様を意味する最高の言葉=「釈」が誰でも必ず付きます。徹底した平等思想なのです。
こんなふうに鎌倉時代に起こった仏教の改革は、平等な対話を基盤とし、始祖の親鸞も含めてみなご同朋ご同行であり、神の命を聞く、神に従うという一神教の垂直的思想とは反対の水平的な民主主義でした。
浄土真宗は日本最大の宗派です。「しきたり」から親鸞思想を知り味わうことは、今日の自由と平等、人権思想の近代民主主義社会に生きるわたしたちにも大きな意味があると思います。「民」は800年前からすでに徹底した民主思想をもっていたのです。
親鸞が宗教改革として成したことを、わずかではあれ哲学(恋知)改革として成せたらいい、それがわたしの思いです。民主思想の発展のために。
武田康弘