思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

親鸞の徹底した民主思想―真宗の「しきたり」から知る

2010-05-12 | 恋知(哲学)

わたしの家の宗教は、親鸞を開祖とする浄土真宗(大谷派)です。
わたしは、自家の宗教には関心をもっていませんでしたが、大学生のときに読んだ『歎異抄』(唯円著)に震撼して以来、親鸞は最も尊敬する思想家になりました。浄土真宗と縁の深い家に生まれてよかった、と心底思いました。もし他宗だったら宗派を変えなくてはならないところでした(笑)。

真宗は、儀式が極めて少なく、特別な「しきたり」はほとんどありません。
それは、死後はみな阿弥陀仏が救って下さり、極楽浄土に往生するという思想から来ています。阿弥陀仏のはからいで誰でもが救われるのであり、「救い」のための修行はいらないのです。阿弥陀仏への絶対他力の心=南無阿弥陀仏。

ですから、真宗でいう回向(えこう)とは、死者が、生者に楽を与える、という思想であり、生きている人から故人へ、ではないのです。故人は極楽浄土に往生しているので、往生している者に対して生者が何かをする、ということはありません。

だから、墓に水や米を供えることもしないのです。また、死者を穢れたものとは見ませんから、葬儀の「清めの塩」などの迷信めいたこともしないのです。

『法事』にも「死者の冥福を祈る」という意味はありません。すでに極楽浄土にいるのですから、冥福を祈るのはおかしな話です。そうではなく、故人を想い、生者がよく生きていくために仏法を聴き・考えるのが、法事を催す意味です。『お盆』も同じで、先祖供養という狭い意味ではなく、先祖を想いつつ、仏法を聴き考えるよろこびの行事なのです。ご同朋ご同行。

真宗には『戒名』はありません。戒名とは、戒律を守ることを誓ってもらうという仏名というほどの意味ですが、故人は、阿弥陀仏によってすでに救われているのですから、戒めることはおかしいのですし、そのような発想を根本的に否定したのが親鸞です。
戒名ではなく、仏の弟子になったという意味で『法名』と言います。2008年に死去したわたしの父は生前に法名をつけてもらっていましが、それが本来のすがたです。「釈實相」といいますが、他宗ではお釈迦様を意味する最高の言葉=「釈」が誰でも必ず付きます。徹底した平等思想なのです。

こんなふうに鎌倉時代に起こった仏教の改革は、平等な対話を基盤とし、始祖の親鸞も含めてみなご同朋ご同行であり、神の命を聞く、神に従うという一神教の垂直的思想とは反対の水平的な民主主義でした。
浄土真宗は日本最大の宗派です。「しきたり」から親鸞思想を知り味わうことは、今日の自由と平等、人権思想の近代民主主義社会に生きるわたしたちにも大きな意味があると思います。「民」は800年前からすでに徹底した民主思想をもっていたのです。

親鸞が宗教改革として成したことを、わずかではあれ哲学(恋知)改革として成せたらいい、それがわたしの思いです。民主思想の発展のために。


武田康弘
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自分の中のモンスター。不毛な修行でしかない「哲学」

2010-05-12 | 恋知(哲学)


昨日の古林治さん、内田卓志さんの哲学コメントにつづき、
青木里佳さんと綿貫信一さんのコメントです。

恋の比喩、ソクラテスの優位」に対するものです。


自分の中のモンスターと向き合う  青木里佳


これを読んで感じたことです。

人間は生まれ持っているものを忘れてしまい、成長と共に外にある価値観に縛られるようになってしまう生き物。

学歴・地位・お金等、後から得るものによって思考も人生も支配されてしまう。それが全ての判断の基準になってしまう。
良い学校に入れるか?一流企業で昇格できるか?お金持ちになれるか?あるいはお金持ちと結婚してセレブ生活が送れるか?
自分が元々持っているもの(個性・才能)を育て、活かすよりも、外の価値観を身に付け、人々や社会に自分の存在を認めてもらおうと努力する。
「ありのままの自分」ではいられない状態に置かれ、強迫観念が自然と生まれる。それは人によって程度の差はあるが「人々や社会に認められないのではないか」という不安と恐怖感を糧にしてじわじわと成長していく。

気が付いた時にはその観念は巨大なモンスターと化して、自分をコントロールしている。
そのモンスターの存在を自覚し、徹底的に向き合って闘わないと一生支配され続けてしまう。

ちなみにソクラテスによる哲学者(恋知者)の定義は、「知恵を求め、美を愛し、音楽(詩)を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトン著「パイドロス」)なのです。
(タケセン)

これは本来の豊かな生き方を示しているが、現代はこの生き方・考え方から随分離れてしまっている。
生まれた時からこの生き方を知らず、教えてくれず、外の価値観で固まってしまった環境に放り込まれる。

現代の人々が恋知者のように生きることができれば、とても豊かで充実した人生を送れるのではないかと思います。
1人でも多く恋知を実践し、それが広がっていけば世の中少しはマシになると思います。
まずは自分の中にいるモンスターと向き合ってみませんか?

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源は想像力ー不毛な修行に過ぎない「哲学」    綿貫信一


初めて「ソクラテスの弁明」を読んだ時、従来イメージしていた哲学書(論文)とは全く違うものだと感じました。ガチガチの論理言語とは程遠いものの、内容の分かりやすさ、深さ、面白さ…は抜群です。

豊富なイメージを喚起するには、文学的とも言える「比喩・たとえ話し」が必要です。これらを非論理的なものとして排除する従来の哲学書は、ストイックなだけで、不毛な修行に過ぎないのではないかとすら思えます。

それともう一つ、(「豊富な比喩を用いた」)「問答的対話」と言う点も恋知にとってとても重要だと思います。書き言葉ではなく、話し言葉。

人間の創造性の源は想像力だと思います。
想像力を喚起するために、比喩・たとえ話、対話。まさに恋知にとってとても大切なことだと思います。


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