思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『親鸞思想の核心』 837年前の今日、ユリウス暦1173年5月14日親鸞誕生

2010-05-14 | 恋知(哲学)

数年前に書いた「親鸞思想の核心」を再度アップします。現代に生きる親鸞の驚くべき革新性・民主制・根源性に晩年のハイデガーのみならず、誰しもが驚愕するでしょう。

ユリウス暦で今日5月14日は親鸞の生誕日だそうですが、わたしの誕生日と同じことを知り、驚くと共によろこびの気持ちが湧き上がります。


親鸞思想の核心(1)此岸と彼岸の峻別 

親鸞は、此岸(この世)と彼岸(あの世)とを峻別しました。

その立場で、万人の救いー阿弥陀仏が等しく皆を救ってくださる、と考える(信じる)のです。人間とは煩悩にさいなまれる存在であるがゆえに、それを気の毒に思った阿弥陀仏が大願をかけ、死後の世界では等しく皆を「極楽浄土」住まわせてくれる、往生はまちがいないというのが、親鸞の他力念仏宗=「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依する)です。

都に暮らす恵まれた人々=「善人」でも救われるのだから、欲望に苛まれ、罪を犯しこの世で苦しむ人々=「悪人」は、なおのこと救われるのだ、という悪人正機説も、そこから自ずと導かれる思想です。親鸞自身は狂おしいまでの「女犯」の欲望に衝かれていました。

幼いころより比叡山で学問と修行に勤しんだ親鸞は、自身の体験から、欲望存在である人間は、生きたままこの世で仏になること=「即身成仏」などありえないことを確信します。29歳のとき法然の念仏宗に回心して山を降り、空海の真言密教を否定。それまでの天皇や貴族のための仏教から、民のための仏教への大転換を成し遂げたのです。密教=旧・仏教のもつ呪術性を徹底して排除、寺院を建てることを禁止し、お布施を納める必要もないとしたのです。(2005.4.10)


親鸞思想の核心(2) 地獄の消去 

親鸞は、仏教のみならずさまざまな宗教に見られる地獄の思想を、「南無阿弥陀仏」の六文字によって意味のないものにしてしまいました。根源的な宗教革命をなしとげのです。

阿弥陀仏は、すべての人・煩悩に苛まれる人間を例外なく救うという大願をかけてくださったがゆえに、往生は間違いない。われわれ欲望存在である人間は、そうであるからこそ、死後の救いー極楽浄土は約束されているのです。

親鸞思想の前では、「地獄」は意味を持ちません。生と死の間には明瞭に切断線が引かれ、死後の世界については、すべて阿弥陀仏が救ってくださるのだから、心配はいらないのです。

そうなれば、私たち煩悩につかれた人間は、煩悩につかれたまま、この世で自身の納得のいくような生を営むこと、心から望むことに従い生きる道を進むことが可能になります。

権力者・権威者・管理者に従ってビクビクする必要はありません。従うのは、親でも教師でも上司でもありません。自分の内から自然と湧き上がる心の声(これが他力)のみです。ここではじめて各自の人生は各自のものになります。「根源的な民主主義」=実存思想の成立です。誰であれ人を支配することも支配されることもない、皆「ご同胞ご同行」ということになるのです。

秩序は、外的な道徳律から内的な納得へと180度回転します。内から湧き上がるエネルギッシュな人生への転換です。驚くべきことに、他力に徹する念仏門は、自力正道門をはるかに超えた個人のパワーを引き出すことに成功したのです。自己のうちに眠る巨大な潜在的な力を解放するのが、親鸞の絶対他力の思想なのだと言えるでしょう。

世界の思想のうちで、これほどの徹底性と大衆性を併せ持った思想はほとんど例がありません。800年前にこのような見事な思想を生み出した日本はすばらしい国です。誇るべき日本の伝統とは、こういうものなのです。ウソで固めた「万系一世」などという神話ではありません。(2005.4.30)


親鸞思想の核心(3) 天皇制国家思想の根源的否定

親鸞とは、表層の思想(イデオロギー)ではなく、
最も深い地点(欲望と生死そのものの価値)から「天皇制国家」の詐術を打ち破った、日本史上最大の人物です。

「南無阿弥陀仏」=善人でさえ往生できるのだから、まして悪人の往生は間違いない=全ての人間を救う願をかけた「阿弥陀仏」への帰依、ただそれだけに凝縮した絶対他力の「救い」の思想は、やがて多くの民衆の心を捉えていきます。
念仏を唱えるだけで誰でも直ちに救われる、という権力者にとっては極めて「不都合な」この思想は、死罪・流刑の大弾圧を被ることとなります(親鸞の師である浄土宗の開祖・法然とその弟子たちが受けた法難)。親鸞は法然の思想を更に深め、都(京都)に住む「善人」でさえ救われるのだから・・・・としたのです。

僧籍を剥奪された親鸞は、わざわざ、朝廷に、「愚禿(ぐとく)親鸞」(愚かなハゲの親鸞)という名前の使用を許可するように申し出ました。
なんという不敵な、いや、そういう言葉も不似合いなほどの徹底した行為でしょうか。


「親鸞は天皇のためには礼拝せず」(主著「教行信証」)、と言い切ったこの優れて民衆的な、同時に「エリート」という名の俗物性から超越したほんものの人間は、多くの日本人に深い感動をもたらします。やがてその思想は野火のように広がり、その後の蓮如の働きにより「浄土真宗」は、日本最大の宗派になったのです。

信長による大量殺戮、徳川幕府による懐柔支配、明治の凶暴な近代天皇制の下に苦しみ、妥協を強いられてきた「浄土真宗」は、今こそ始祖―親鸞の初心に帰ることで、真の普遍宗教の役目を果たすべきでしょう。

「天皇制」の亡霊を復活させようとする勢力が台頭しつつある今、親鸞思想の意義は計り知れないおおきさをもつと思います。真宗教団の奮起を祈念します。(2005.9.11)
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