思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

竹田青嗣さんとわたし武田康弘の出会い=対談の記録(1990年7月23日) 

2011-06-06 | 恋知(哲学)

荒井達夫さんのコメントをうけて、以下に21年前の記録を載せます。

これは、わたしと竹田青嗣さんとの出会い(竹田著のNHKブックス『現象学入門』が出た後)を記したものですが、当時、竹内芳郎さんが始めた『討論塾』(主にわたしの影響で竹内さんが大学教授を辞め、わたしは全面的に協力し支えましたが、後に別れることになる)の塾生全員に郵送でお配りしたものです。ただし、内容は、竹田青嗣さんの校閲を経たものではありませんので、文責はすべて武田です。なお《 》の中の文章は、後に付けくわえました。



竹田青嗣さんとの対談 1990年7月23日           
(竹田さん44才 武田38才)



(武田) 我孫子での竹内芳郎の講演(テープ)を聞いての感想は?
《注・後に筑摩書房から「ポストモダンと天皇教の現在」として出版された》

(竹田) 結論としての主張には同意するが、一つのフィクションである「地球の危機」から出発するのには抵抗がある。私なら、どのようにしてよい人間関係をつくりあげていくか、楽しく豊かな人間のつきあいを広げていくかという方法を考えるところを出発点にする。

(武田) それは私自身の生き方でもある。私塾も住民運動も哲研も皆そこを出発点にしている。だから竹田さんの言うことはよく分かる。 ・・・私と竹内氏とでは生き方の形は大きく違っている。
だが氏は、ひとつの極にいる人間だ。私が竹内氏に学び、親交を深めてきたのは、自分を異化するためだ。その手強さと対峙することは、自己の破壊であると 同時に創造である。これほど生産的なことはない。

(竹田) あ一、なるほど。ただ、私は竹内氏のように対抗イデオロギーを作って闘うということには疑問がある。存在論のもたらす原事実を基軸にしていくべきだと思う。イデオロギーに、対抗イデオロギーを作ってぶつけるというのは、・・・

(武田) 原理的には、それが正解かもしれない。「対抗イデオロギー」なしでやっていければ、それにこしたことはない。しかし少なくとも現状では、対抗イデオロギーはどうしても必要だ。私は<教育問題>に取り組んできたが、伝統主 義・保守主義のイデオローグと戦うために、そしてそのイデオロギーに呪縛されている人々をそこから解放するために、竹内イデオロギーはすばらしく役に立つ。

(竹田) なるほど、それは分かりました。では、こんど竹内さんとお会いしたとき何を話せばよいでしょうか。私は文芸評論が仕事で、哲学や思想についての知識はあまり持っていないのです。竹内さんはマルクス主義者で、たくさんの知識がありますし。

(武田) いや、竹内芳郎の出発点もフッサール・サルトル、ハイデガーなのです。 それ は、『サルトル哲学序説』(特にP.45-59)を読めば分かります。ただ彼は、現象学‐実存哲学によって「近代主義」の根本的な批判を果たした上で、対抗イデオロギー(建造物)をつくりあげてきたのです。その集大成が、『文化の理論のために』(岩波)です。・・・土台は現象学的存在論で、マルクス主義者と自称しているのは、自己誤認だと私は思っています。

(竹田) 私は、きちんと読んでいないのです。竹内さんの本は難しいですし。・・・竹内 さんの言わんとすることは分かりますし、結論はわりあい共通していると思っていますが、そこに至るまでの過程というか、切り口は、ずいぶん違っているように感じます。

(武田) その通りだと思います。だからこそ竹内氏と対語する意味があるのです。私には、なにか新たなものの始まりが予感されます。

(竹田) 武田さんにそう言われると、私もそういう気になってきました。(笑)

(武田) ところで、語は変わりますが、ハイデガーの「死」について竹田さんは書かれて いますが、少し疑問があります。竹内さんの書いたここの所を読んでください。 (『マルクス主義における人間の問題』の、死の実存的な会得なるものが存在するのかどうかも怪しいものであって・・・の部分)

(竹田) あ一、これは竹内さんの考えに賛成します。実は私が「死」への直面を言ったのは、日常的な共同体への埋没から抜け出るための手段としてなのです。やはり竹内さんが言うように、他を排して一を選ばざるを得ない有限性というところに重点を置いた方がよいと思います。

(武田) では次にもうひとつ。私は竹田さんの言うように、サルトルの即自・対自を物と心の二元論だとは考えていません。また意識主義だというのにも疑問があるのです。

(竹田) それは、もしかすればそうなのかも知れません。私は、学問的に決着を着ける力はありません。ただサルトルとハイデガーの両方を読んで、ハイデガーの方に 分があると思っただけなのです。ただハイデガーの良いのは『存在と時間』だけ で、後期のものは全部ダメだと思いますが。・・・武田さんがサルトルから、私がフッサールやハイデガーから読みとった良きものと同じようなものを読みとったとすれぱ、それでいいと思います。どちらが正しいかは分かりません。更に言えば、 現実の問題に役立つように読めばそれでいいのではないでしょうか。

(武田) それは、私も実践を基準にして本を使うというやり方が正しいと思っているので、まったく同感です。ただ思想は、それが与える社会的影響について考慮する (責任をとる)必要があるはずです。ハイデガーのナチス加担の事実をどう考えますか。
《竹田さんの処女作『意味とエロス』の自己紹介欄で、竹田さんは、「ハイデガーを神とする」と書いています。》

(竹田) それは分かります。ただ私は、その問題をよくは知らないので触れませんでした。また作品は、作品として読むということが正しいと考えています。

(武田) もちろん文学言語や理論言語は、第二次言語として発話場から相対的に自立しているわけですので、竹田さんの言うことはもっともです。しかし、それを絶対的に自立させてしまうのには、問題があります。ふつうは誰でも「ハイデガーは偉い哲学者だと言うけれど、ナチスの正体も見抜けず、その後も全然反省もしない人間が<哲学者>だとは何なのか?」と思いますよ。(哲学者とは、哲学することでバカになった人種のことだ!?)したがって、その問題に答える必要が当然生じるはずです。彼の哲学自体にやはり歪みがあったのではないですか。

(竹田) そこのところは、今後考えていかなければならないと思います。
《注・5年後に竹田さんは「ハイデガー入門」講談社選書メチエ、を書き約束を果たしてくれました。》
竹内さんとの三者会談のとき、その問題を出して下さい。
ぼくは今、筑摩書房から出す『哲学入門』を書いているところです。《「自分を知るための哲学入門」として刊行されました。現在はちくま文庫になっています。》

(武田) それは、実にいいことですね。ひとつ注文があります。いわゆる<現代思想>は、マルクス主義への反発から、すべてを「物語」だと言って排除してしまいま すが、これはとんでもない間違えです。特定のイデオロギーに固執することへの批判が、イデオロギー一般への批判へとすり変えられたために、自分の頭で何も構築しないで体制に流されること・イコール・偏っていなくて正しい。批判精神を持っていること・イコール・イデオロギーを持っているから悪。という考え方がはびこって、どうしようもない状況を生みだしているのです。人間が人間をやめない限り、イデオロギーから離れられないという原事実を、まずしっかり分かってもらうことが前提です。

(竹田) なるほど。そうなふうになっていますか。私も武田さんの批判に賛同します。

(武田) 最後に、竹田さんは「現象学は役に立たない。」と書いていましたが、大変に役に立ちますよ。私の主張を深いところで裏付けてくれますし、また社会運動の推進のためにもすごい力を発揮します。

(竹田) そうであればとてもうれしいです。(笑)


1990.7.23 新宿・滝本で(文責・武田康弘)

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コメント

私にとっての二人のTakedaー1 (古林治)
2011-06-06 23:57:36

私が哲学や現代思想への関心を失い始めていたのもちょうど1990年ころでした。
竹田青嗣さんのことは知ってはいましたが、文芸批評家としてであって、哲学者
としての竹田青嗣さんは、その後(1993年ころ)、タケセン(武田 康弘さん)
を知って紹介してもらってからのことです。
二人のTakedaを知ることで私の哲学への関心はよみがえったのです。
ただし、ここでいう哲学とは、『どのように生きていったらよいのか、どのよう
な社会をめがければよいのか。』を考える本来の哲学のことであって、 哲学史
や机上での緻密な論理を操ることではありません。あくまで、現実の生を豊かに
するためのものです。その本来の哲学の基本中の基本である認識 論(欲望論・
意味論)が二人のTakedaに共通する考えだったと私は思います。
その後、生きた哲学を実践するタケセンの市民活動にかかわり、竹田青嗣さんの
著作に興奮してきました。
が、一方で、二人のTakedaには本質的な違いも感じます。

タケセンには、『私の、そして人々の、より善い生を! そのための社会を!』
という強烈な情動が流れています。そのためにはどうしたらよいのか、 を考
え、行動し、変えてゆくという能動性が渦巻いています。だから、哲学書を活か
すことはあっても哲学書から何かを学ぶということはないし、理論 を弄して現
実に働きかけるという発想もなく、常に自分の頭で考え、判断し、行動します。
常に生々しい現実の中に自分をおいて考え、行動し、確か め、確信するという
連鎖がタケセンの哲学そのものです。思想や理論としての哲学を決して先立てる
ことはありません。だからこそ、幼児からお年寄りま で、老若男女、学歴、人種、
職種を問わず日々対応(対決)できるのでしょう。
(続く)

私にとっての二人のTakedaー2 (古林治)
2011-06-06 23:58:51

一方、竹田青嗣さんは、哲学者と呼ばれる中では特異な存在です。過去の哲学史
を掘り起し、不当な解釈がされている歴史上の哲学者たちの著作に向き 合い、
独自の竹田哲学を読み解いてきました。その最良の読み込み方、私たちの生に
とって意味ある解釈には、かけがえのない価値があると私は思いま す。荒廃し
た『学』の世界に一風を呼び込んでいると言えますし、やはりある種の天才とも
いえるでしょう。
ただし、竹田青嗣さんが真摯に向き合うのは、過去の哲学者たちの著作であり、
生々しい現実から一歩離れたところに身を置いてます。
より善い解釈、哲学を広めることで少しでも『より善い生を!そのための社会
を!』ということなのかもしれませんが、その影響は『学』の世界、書物 の世
界、言語上の世界に留まってしまう可能性もあります。
実際に何人かの竹田青嗣ファン・信奉者と話をしたことがありますが、言語上の
理解だけで満足し、現実の生に関心を示さない人たちでした。ここに私 は危う
さも感じています。この点は自覚的でないとまずいでしょう。

極端な話、哲学があれば、より善い生を送れるわけではありません。哲学を知ら
ずに、より善い生を送る人たちもいます。そうした人々は多分、知らず 知らず
のうちに本来の哲学を身につけているのでしょう。哲学とはそういうもので、理
論として学ぶものではないということだと思います。
向き合わねばならないのは、あくまで生々しい現実の世界であり、哲学はそのた
めに役立てるもので、既成の【学】の如く、決して狭義の哲学(言語の 世界)
から現実を見下ろしてはならないということです。

『二人のTakedaの出会い』を読み、懐かしく思いながら今感じることを書いてみ
ました。

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すごく納得 (清水光子)
2011-06-07 09:21:25

古林さま
武田先生についておっしゃった言葉 スゴく納得です
より善い生き方 より善い社会を!!と目指す哲学に接することができてとても有難いことだと思って居ます
この頃「倫理」について個人と個人の間に嘘が無く信頼関係があってこそが倫理が成り立つと伺い 倫理について社会的な儒教の倫理と 全然違う!と胸が軽くなってまた生きる力を頂きました。
私の理解が間違えていたら、明後日「愉しい哲学の会」が有るのでまた教えて頂くのを楽しみにしてます。
総理を元総理がペテンだという今の政治家達にはほとほと情けなく思いますものね 古林さんの先ほどのタケセンについての生きる生きた哲学を広く伝えたいです。清水(81歳)





コメント (6)
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対話篇「自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我」

2011-06-06 | 恋知(哲学)
132. 対話篇
  「自分を中心に考える、とはどういうことか。小我と大我」
白樺教育館ホームにアップしました。ぜひ、ご覧ください。

武田康弘
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