自分がよいと思う「理想」を追いかける心は、人間を歪め、不幸にします。
あるべき自分、あるべき人間、あるべき社会、という発想は、存在不安を引き起こし、精神疾患の原因になります。
理想を掲げる者は、強迫神経症者なのです。そのような人は、決して、充足・悦び・幸福を得られませんし、周囲の人間も不幸にします。また、そのような人間が上位に立てば、社会はダメになります。
身体的であれ心的であれ、また思想であれ、「理想」をもつほど危険なことはありません。
その反対に、「憧れ想う」ことは、とても大切です。「よい、美しい」のイメージを広げること、日々の生活の中で、何がほんとうに「よいこと・美しいこと」だろうか、を思い、考えることは、人がよく生きる上で、なにより大切ですが、それは、特定の「理想」を掲げるのとは逆です。
理想をもつことは、特定の主義や宗教に縛られことと同じで、イデオロギーを先立たせる生き方ですが、それは、心身を硬直させ、しなやかさ・柔らかさを奪ってしまいます。「論理主義」やその裏返しの「感情支配」を招来します。この両者は一つメダルの表裏でしかないのです。
自由闊達で豊かな心、創意工夫、臨機応変、当意即妙は、「理想を追う」という姿勢から自由でないと生まれません。
いまある私、人、物、そして自然を受けいれ、愛する心。自分が生かされていることへの感射の気持ち=他力のこころ、がなければ、いつまでも、どこまでも不幸です。心のどこかに「理想」を抱え持つ限り、「自力」の考え方から抜けられず、強迫神経症者として生きる他なくなります。根源的不幸の中に沈んでしまいます。
憧れ想う心=イメージを広げることと、理想をもつことは、正反対なのです。
武田康弘
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コメント
体験で知る (中野牧人)
僕の始めた農業は理想とはほど遠く、夢を見つつも現実的な妥協の連続です。その妥協はきっとその時のベストなんだと思うようにしています。
理想的な完璧な結果ばかり求めると、手は止まり、否定的なアイディアばかりになりますから。
学生を卒業して、初めてそれを体感しています。
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開かれた私=大我 (武田康弘)
「理想的な完璧な結果ばかり求めると、手は止まり、否定的なアイディアばかりになりますから。
学生を卒業して、初めてそれを体感しています。」 (中野牧人)
「体験」は、一切の根源だものね。
「理想」を追う姿勢は、「自我主義」(自己の思想や感情の絶対化=小我)によるのだが、
「憧れ・想う」は、「開かれた私」(大我)による。
「理想主義」で固まった「自我」ではなく、
豊かに広がる囚われのない「私」は、
楽しく素敵だ。