恋、恋愛の神である「エロース」(ギリシャ語です。英語ではキューピット)は、ソクラテスの高弟・プラトンによる学園「アカデメイア」(紀元前の私塾のような教育機関で、後に現れたキリスト教会による弾圧で潰されるまで900年以上続いた)の主祭神です。
なぜ、恋愛の神である「エロース」が、哲学の神なのか?
恋愛とは、現実的な損得・利害を超えて「よい」人や「美しい」人を憧れ想う心で、「俗なる正気」ではなく「聖なる狂気」の世界だからです。
現実的な損得を超えて、何が「ほんとう」なのか、を求める心が人間にはありますが、その心がなければ、人間の生は意味づかず、輝けません。「憧れ想う」という恋の作用こそ、善美のイデアを希求する哲学の象徴ですので、主祭神はエロース(キューピット)なのです。
しかし、明治時代初期から、ドイツのカントにはじまる大学内専門哲学を直輸入した日本(東京帝国大学)では、哲学をアカデミックな世界として怪しまない歪んだ想念に支配されましたので、恋・恋愛と哲学が結びつかず、堅苦しく権威的なもの(東大やハーバード大の教授がする??)になったのです。
生活(生活・仕事・趣味・人との交わり)の中で、感じ、想う、ところから考える(元から考え直す)という哲学の営みは、哲学史の知識、及び哲学書の読解という狭い世界に閉じ込められて、命を失いまいした。
哲学(正しくは、恋知)を蘇生させるには、卑怯者さん(コメント欄)が言うように「恋」を「愛」と誤訳する騙しを見破り、ふつうの生活者の生活実感からの思考と対話が必要です。具体的経験(生活・仕事・趣味・人との交わり)に基づいて、元から考える営みは、とってもエロース(艶・悦)豊かです。
武田康弘