思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

恋を愛と誤訳するのは、大学内哲学の悪習。

2011-06-28 | 恋知(哲学)

恋、恋愛の神である「エロース」(ギリシャ語です。英語ではキューピット)は、ソクラテスの高弟・プラトンによる学園「アカデメイア」(紀元前の私塾のような教育機関で、後に現れたキリスト教会による弾圧で潰されるまで900年以上続いた)の主祭神です。

なぜ、恋愛の神である「エロース」が、哲学の神なのか?

恋愛とは、現実的な損得・利害を超えて「よい」人や「美しい」人を憧れ想う心で、「俗なる正気」ではなく「聖なる狂気」の世界だからです。
現実的な損得を超えて、何が「ほんとう」なのか、を求める心が人間にはありますが、その心がなければ、人間の生は意味づかず、輝けません。「憧れ想う」という恋の作用こそ、善美のイデアを希求する哲学の象徴ですので、主祭神はエロース(キューピット)なのです。

しかし、明治時代初期から、ドイツのカントにはじまる大学内専門哲学を直輸入した日本(東京帝国大学)では、哲学をアカデミックな世界として怪しまない歪んだ想念に支配されましたので、恋・恋愛と哲学が結びつかず、堅苦しく権威的なもの(東大やハーバード大の教授がする??)になったのです。

生活(生活・仕事・趣味・人との交わり)の中で、感じ、想う、ところから考える(元から考え直す)という哲学の営みは、哲学史の知識、及び哲学書の読解という狭い世界に閉じ込められて、命を失いまいした。

哲学(正しくは、恋知)を蘇生させるには、卑怯者さん(コメント欄)が言うように「恋」を「愛」と誤訳する騙しを見破り、ふつうの生活者の生活実感からの思考と対話が必要です。具体的経験(生活・仕事・趣味・人との交わり)に基づいて、元から考える営みは、とってもエロース(艶・悦)豊かです。


武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメントについてー「公共的常識」を踏まえることが必要です。

2011-06-28 | 恋知(哲学)


わたしのブログの趣旨・文脈・内容に即しての質問や反論ならば、わたしは、きちんとお応えしますが、
気分の表出や、
感情的なウップンを晴らし、
一方的な物言い、
よい人生や社会を生み出そうとする能動的構えのないものは、
「民主的倫理」に反するコメントと判断し、削除します。

わたしの書いたものから、よいものを汲み出そうという積極的・前向きな姿勢をもてない方は、コメントを書くことをおやめ下さい。

「互いの自由を尊重し合うことでつくられるルール社会」が民主主義国家の原理です。他者のブログに対して批判的な意見を書く場合は、自分の思考枠を堅持して相手に言葉を投げつけるのではなく、相手の文脈をよく理解した上で書こうとする姿勢を持つことが必要です。また、言い方も丁寧でなければいけません。

以上は、【公共的常識】に属することですが、社会人としての常識を持たないのは、私の経験したところでは、教師、とりわけ有名大学の教授など、また官僚や、ステータスと見られる職業の人に多いようです。彼らは、自分が上位者だと思い込んでいるために、「ああ、勘違い」の言説に終始するのでしょう。

みなさん
親鸞のような「ご同胞ご同行」の精神で生きたいものですね。わたしは、「民知」の営みを続けますので、今後ともよろしくご支援をお願いします。


武田康弘
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする