思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

 明瞭な自己説明をすべきことー「自己宣伝」という批判は、不幸を生む悪意。

2013-09-16 | 恋知(哲学)

 明瞭な自己の言動、その内容の説明を、「自己宣伝だ!」と言って批判する人がいますが、そういう人は、黙っていても自己が優位にたてる知・歴・財の『所有者』です。あるいは、彼らに従う同伴者です。

 偉い肩書をもっていたり、その同伴者であったり、大きな団体に属していたり、財産持ちであったり、有名人であったり・・・何かの所有者とその同伴者たちは、自分の存在そのもの(=裸の自己)のよさ・魅力で生きているのではありません。

 だから他者、とりわけ自分よりも所有(知識・履歴・財産の所有)の量が少ないと思われる人に、【本質的に優れた言動】を示されると、不愉快になるのです。自我(偉いはず・優れているはずの自分)の価値が相対的に下がると感じるからです。

 わたしは、自己卑下の発言(その裏にある自己自慢)にはうんざりしますが、ストレートな自慢話(内容の豊かな)を聞くのは気分がいいです。ぐちゃぐちゃとした「おしゃべり」や、公式的な型ハマリの言辞ではなく、明瞭な自己の考えと行為、その結果のよし悪しの話は、とても役に立ちます。その人のしていること・してきたことをキチンと整理して話してもらえるのは、ありがたいと思います。

 誇大宣伝のような自己話。

名前だけの代表だったのに、自分の業績にしたり、また、人にそのように言わせたり、
グループの一員にすぎないのに、あたかも自分が中心者であるかのように話したり、
人のやったこと・言ったことを、自分がやったこと・言ったことのように言ったるする。
あるいは、他者のよい点には触れないで黙っている(この消極的なウソは、自己の価値を高く見せようとする悪癖で、多くのに日本人に血肉化されています。その厭らしさは底知れぬ不愉快をまき散らし、善美のイデアを求めようとする能動性を消去し、人間性の根っ子を腐らせてしまいます。情緒音痴音の尖り顔できれにいに見えるのは上っ面だけ、ズルさの極みですが、それが「永遠に幸福になれない日本人」を生みます。)

 慇懃無礼(いんぎんぶれい)、肩書人(学歴や職歴)や有名人にはそういう人はやたらと多いですが、それらを嫌悪するのではなく、
内容・実質を担っている・担った人が、その人がしていること・してきたことの中身をきちんと説明すると「自己宣伝だ!」という非難をするのには、明白な意図があります。
 立場上(内容上ではなく)優位に立つ人やその同伴者が、その優位を守るため、という意図=悪意です。
 あるいは、自分の「得」だけを追求し、「気分」や「都合」だけで生きていて他者への感謝の心をもたない人は、内容・中身の話をひどく嫌がります。形式だけにして!!と叫びます(心の中で)。そうでないと、自分の内容の乏しさがバレるからです。ふつうの多くの日本人はそうです。形式・表層と世間的な序列で生きていて、中身がない!

 
 天皇史観(何事でも優れたこと・よいことは天皇の手柄)という日本の公式の歴史は、「形式と世間的な序列がすべて」という真実と意味充実のないインチキ物語=権力者史観で成り立っているので、少しも面白くありません。ウソや建前には魅力がありません。本質論=意味論がなく、どうでもいい「事実」の集積(目くらましの詐術)は、人間を元から腐らせてしまいます。日本人の魅力のある時期がせいぜい小学生までというのは、ウソと建前を仕込まれて、管理された公式人=機械人に落ちるからです。

 わたしたち日本人が、内容ではなく、形(建前)で生きる不幸、中身の豊かさがなく形式だけを整えて生きる誤魔化し人生から抜けるための重要なアイテムは、内容としての自己の言動の説明です。よい意味での自己宣伝はとても大切で、それがないと、立場や名前上の上位者による支配から抜け出すことができません。

 インチキを許さないためにも、自分の内容=実力を向上させるためにも、自己説明=正当な自己宣伝は必須です。それは権利のみならず義務ですらあるはずです。コソコソ・淫靡、物事や自分自身を斜めからしか見れないから悪癖から脱し、正当で中身の豊かな自己アピールをしましょう。それが自他の幸福をつくるのです。

武田康弘

 

コメント (1)
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