思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

個人ではなく国家を先立てる自民党≒日本会議の思想は、民主制の破壊を意味します。

2014-08-01 | 社会思想


 近代市民社会を拓いた民主制は、一人ひとりの人間を対等な存在とみなし、一人ひとりが感じ、想い、考えることに依拠して国の政治と社会をつくるという思想です。言い換えれば、「個人の想念と意思」から出発して、「互いの自由を認め合うことで成立するルール社会」です。

 天皇と皇室を尊敬せよ、とか、君が代を愛せよ、日本ナショナリズムを持て、というような強要・命令がある国は、特定のイデオロギー(この例で言えば明治政府が作った「近代天皇制=国体主義=靖国思想」)に基づく《思想国家》であり、近代民主制とは二律背反です。

 そのような思想を強要する行為は、根源的なレベルでの「公共悪」としか言えず、民主制社会では認められないのですが、昨日の「東京新聞」が報じているように、自民党の幹部が加盟する「日本会議」というウヨク団体は、敗戦により終止符が打たれたはずの戦前思想(伊藤博文や山県有朋らがつくった明治の天皇制=国体主義=靖国思想)を国家権力を用いて復活させようとする危険な団体です。

 明治以来の日本人がもつ「狂気」を感じ、空恐ろしくなりますが、「冷たいヒステリー」が生みだす非人間的な思想は、ふつうの市民の敵としか言えません。このような歪んだイデオロギーが生みだされる大元を断たなければ、形と序列ですべてが仕切られる「人間を幸福にしない日本というシステム」は永遠に続きます。個人は、日本主義の国家に従わされる存在に貶められます。「日本会議」に集まる政財界のウヨク「エリート」(支配者)たちは、いま、安倍首相と共に、日本人という概念を強調して「個人」を否定する憲法案の実現に向けた活動に冷たい情熱を傾けています。

 民主的な生を営む市民にとって、不倶戴天の仇敵というほかない公共悪です。

 

 以下は、日本会議の大まかが分かる「東京新聞」の特報部記事(昨日・7月31日)です。

 

コメント (4)
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