道徳を可能とする条件は、自分以外のものへの想いを馳せる心があるか否かです。
他者を愛する心のない自分への愛は、エゴイズムに陥るだけのことですが、
他国を愛する心のない自国への愛は、おぞましい思想と生き方をつくるだけです。
愛国心を育てるという教育は、道徳としては不成立なのです。
自分の国を愛することが道徳となる条件は、他国を愛する心があることです。
それは、自分を愛することが道徳となるには、他者への愛が不可欠なことと同じです。
こういう基本を押さえないと、戦前の愛国主義と同じ思想教育にしかなりません。
政府と文部科学省の人々は、人間とは何かというフィロソフィー(存在論)を知らなければなりません。
そういう努力のない道徳教育ほど危険なものはないのです。
武田康弘
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明治維新がつくった精神は、エゴイズムです.今年で150年.
2018-02-11 | 恋知(哲学)
対米戦争を決定した二人
=岸信介(安倍晋三の祖父)と東条英機
「戦前思想」(天皇現人神という国家エゴ
イズム)の政治家の代表者。
何がよいのか、ほんとうなのか、と問うことなしに、
自己の利害損得、家族の利害損得、所属する組織や団体(学校・会社・役所・組合・サークルなど)の利害損得、自国の利害損得、に固執して、「閉じた」世界に生きれば、それはエゴイズムです。
個人エゴイズム、家族エゴイズム、組織エゴイズム、国家エゴイズム。
明治政府の富国強兵政策は、一人ひとりの私の欲望を愛国主義のもとに国家への欲望として統一し、滅私奉公を合言葉にしましたが、これは、広く世界に開かれた関心・興味・欲望ではなく、日本に閉じた関心・興味・欲望でした。
日本国家という概念は、あくまで言葉=概念ですから、それを目に見えるものとする必要が、天皇とその家族=皇室でした。日本を象徴する特別な人間・家族を置くことで、国体という概念を子どもにも分からせようとする政策で、小学1年生から天皇像を毎日拝ませ、日本国への忠義の心=愛国心を養ったわけです。
「閉じている」というのがエゴですが、個人のエゴを開かせるのではなく、閉じたまま国家レベルに拡大するのが「国家エゴイズム」です。明治以降、よく「日本に哲学なし」といわれるのは、私を開いて、普遍性のある「よい」を探求する営みがなく、私を国へと拡大して利害損得を求める日本のありようが必然的に生みだす精神です。
だから、公(おおやけ)と呼ばれる国家(天皇や皇族はそれを象徴する役割を担わされている)と、閉じた私(エゴ)はセットですし、
開かれた私(普遍性を目がけるわたし)と公共性(市民みなのという意識がつくる社会性)はセットです。
私を活かさないと(開かれた私でないと)公共性はつくれませんし、逆に、公共性を生むためには、開かれた私である必要があります。
後者を現実のもとのするには、幼いころより自分で考え・意見をもてるようにする子育てが必要です。自分が何かをした、どこかに行ったという「事実」ではなく、自分はどう思い、いかに考えるか、それをどのように語るか、という「意味」充実の世界がつくれないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。
戦前の国家エゴイズムは、戦後は個人エゴイズムになりましたが、このエゴイズムの不毛性からの脱却は、これからの最重要な課題と思います。
明治維新の深く大きな負の遺産を清算しないと、日本の未来が開けませんし、一人ひとりの幸福はつくれないでしょう。