自分の関心、知的好奇心とは無関係に、文科省が決めたカリキュラムの枠内の勉強をただ繰り返して覚える。進学教室に通い、緻密化する。
知の世界が、自分の頭で考えることから完全に切れて、政府文科省の「官知」の領域に閉じ込められ、そこから出られない。その枠内に留まり、言うなりになる従順な頭と心身をもつ者を優秀、秀才、天才!?(笑)と呼ぶ。いまは、もうフィロソフィーまで情報知と西ヨーロッパの哲学の「正しい」!?解説書の読書となり、ソクラテスの「恋知」の実践とは無縁。
これでは、おバカな国ーおバカな国民というほかなくなります。
アインシュタインとは正反対の頭脳が「頭がいい」と言われます。既成社会の既成頭のチャンピオンの東大脳が「頭がいい!」のなら、頭がいいとは、自分として生きていない証拠ですし、自分の頭と心身で思考していない証拠です。日本では、本質的な馬鹿=従順脳が優れていると言われるので、お勉強のできる人は、使えない頭、人間としては意味のない頭の持ち主にしかなれません。人間までAI(笑)。
ただ親の言う通り、毎日数時間も受験勉強(パターン知と丸暗記)を繰り返していたら、誰でもみな機械頭になります。臨機応変・当意即妙の能力とは正反対の紋切型の頭脳に堕ちるための努力を従順に繰り返す人間が、人間の脳として「優れている」はずがありません。どうでもよい実にツマラナイ事実の暗記競争をしている人間に、事象の意味や価値が分かるはずがないのです。【高得点を取る本質バカ】を製造するために、膨大な時間と労力をさく国民は、人間性の豊かさや人間的な思考力をもたず、ただの「事実学」の暗記に明け暮れます。それが勤勉と言われて褒められるのなら、勉強すればするほどバカになるほかありません。
読み書き計算や幾何が一定程度できることは必要です。しかし、その緻密化のみが目がけられれば、「棒人間」にしかなれず、自分自身の頭と心身を使って生きる主体的な人間にはなれません。外見・形だけが立派で、中身は空洞。どうでもよい知識競争の外面人間になり、自我の内的成長がありません。それは精神の未発達ですが、周りも本人もそのことに気付かず、総合判断力のない高得点者が優遇され褒められるなんとも珍妙な社会をつくります。「精神病もみんなで罹れば怖くない」(笑・呆)となります。これが東大病ですが、東大教という世俗宗教がこの病気を起こし、快癒を不可能にするのです。
勉強、学習、勉学、学問の目的が「主観性の知」の豊穣化であることを知らないのが大多数の日本人ですが、知の目的を知らないので、読み書き計算に始まる客観学(ドリルに答えが書いある)の緻密化が目的だ、と勘違いしていることいることに気づきません。手段にしかすぎない客観学を目的だとするので、物知りが偉いと思い、事実学(意味論・本質論なし)の積み上げに必死になります。単なる「事実学」は「事実人」(サルでも犬でもなく人ではあるが、それだけ)しかつくらない、とは認識論(認識の意味と価値の解明)の原理を明らかにしたフッサールの言葉ですが、その通りと思います。
わたしの関心から発しない知を体系化して仕込まれれば、善美に憧れ、真実を求める豊かで人間味あふれる人間にはなれません(事実としては人であるだけ)。わたしの関心・必要・目的(広義の「欲望」)から発しない知は、死んだ知に過ぎず、一人ひとりの生を輝かせず、意味に乏しい知なので、優れた生をつくらないのです。
そういう知の支配する国では、各人が自分自身の存在のありようをよく見つめ、自己の存在価値を自覚することがありません。集団の中の一歯車でしかなくなります。私からはじまるよろこび・輝き、価値を創造する自己ではなく、外なる価値に合わせるだけの自己に陥ります。ほんらいの知の意味が消え、逆立ち(手段が目的化)しているからです。
今からでも遅くはありません。この逆立ちをひっくり返して、正常化させ、知と生の本道を歩み始めようではないですか。生きるに値する人生は、わたし自身がつるもの。 「恋知」の生です。
エロース像(素焼きのラコステ人形・ルーブル美術館蔵)
プラトンの学園『アカデメイア』(キリスト教により廃校させられるまで900年以上続いた)の主祭神はエロースでした。
善美のイデアを求め、真実を探求するフィロソフィーの営みの動力源がエロース(身体的な愛)です。
武田康弘