思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本型支配の恐ろしさー「形」を要請することで、実存の自由を消去する。

2019-07-13 | 恋知(哲学)

 人間は象徴動物なので或る「形」を要請することで、特定の想念をもつようになります。明治の開国から敗戦まで、有名な知識人の多数は天皇崇拝者になりました。ならなかったのは、弾圧の中で民権運動を担った者や社会主義者と呼ばれた民衆派ら、日々の経験につく「生きた知」の実践者のみでした。

   形の要請は、現代でも服装や持ち物を規制する校則や社則に上手に用いられています。思想の外形(形式)だけをつくり、内容は明示しないという方法は、特定の想念や生き方を本人に気づかせずに刷り込むことを可能にします。官僚支配などもみなこの手法で行われてきました。形式をつくり、それに従わせることで、考え方と生き方をコントロールできるのです。今の子どもたちの生活を例にとれば、固苦しい儀式としての入学式や卒業式に従わせること、部活動で毎日長時間の拘束をすること、勉強とは受験勉強であると限定すること、で「型ハマリ人」が出来、なぜ、どうして、何のため?という意味内容の追求が弱まります。自由な発想―「私」からはじまる伸びやかさや豊かさの世界が拓けなくなるのです。

明治天皇肖像 (明治天皇の肖像・明治23年に全国の 学校と役所に配布し拝ませた)

   明治の官僚政府は、小学一年生から毎日天皇の肖像(写真を元にしてつくった絵画)を拝ませ、日本史を天皇の歴史として教え、皇室への尊敬心を植え付ける教育を徹底させましたが、そのために、個人の内面世界は抑圧され、各自の心は「天皇制国家を維持する愛国心」という外面思想に犯されてしまいました。「私」の心・内面世界・個人のイマジネーションの広がりや構想力は、邪魔(じゃま)とされたのです。今日に至るも、実存的な思想や全体の意味を構想する能力は求められず、「餅は餅屋」として種々の技術を磨くことや専門知だけが必要とされ、生き字引のような暗記頭が高評価されています。意味論としての知や自分の頭で考えるというほんらいの哲学の営みは日本にはほとんどありません。大学哲学は専門知になっていますので、「哲学者とは哲学することで馬鹿になった人種のことだ。」という嘲(あざけ)りがその通りとなっています。

   「現実」とは、人間にとっての現実である限り、文学や演劇や音楽などの非現実を含んではじめて現実なのですが、政治的、経済的な外的現実ばかりが肥大化した国に生きると、生きる意味である「私」の内的世界は育たず、ロマンや理念の世界が消えてしまいます。即物的な価値観に支配された灰色の不幸に陥ります。情緒音痴で表情に乏しい人、紋切型で人間味の薄い人で溢れます。全てが数値化され序列化された国では、「私」固有の生の意味が失われてしまうからです。他者との競争と損得勘定が生き方の中心となれば、対話や議論も勝つか負けるかの「ディベート」にまで貶められ、なにがほんとうかを目がける「恋知(ほんらいの哲学)問答」の営みは育ちません。「日本人ほど政治的な国民はいない」と言われるのは、ありのままの心を見、私の考えを育て・語ることが少なく、たえず上下意識を持ち、他者からの承認に怯えて効果ばかりを考える言動に終始しているからです。「私」から立ち昇る実存的魅力に乏しい生は不幸です。

   外なる価値を追い求め、世間体を気にし、序列意識に支配されていては、中身・内容に乏しい「真実のない人生」しか得られないはずです。それでは人生の失敗というほかありません。

武田著「恋知」第1章より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする