思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

明治政府がつくった「元号」が伝統!という真っ赤なウソを信じる日本人の哀れ。

2019-07-01 | 教育

 中国にならった「元号」の制度は、「大化」(645年)にはじまり、二度の中断をはさみ、「大宝」(701年)から続きましたが、その伝統は、江戸時代と共に終わりました。

 

 明治からは、一世一元という新しい元号制度=天皇と元号を結び付けて、近代天皇制と呼ばれる天皇中心主義国家のシンボルとなったのです。国民に一世一元の元号を使用させることで、日々、自然に天皇という存在を意識させるのが、明治政府の目論見(もくろみ)でした。  明治維新が、大化から慶応まで1200年あまりの日本の伝統を壊して作った「天皇現人神」という国家宗教=国体思想=靖国思想は、大きく深く日本人に浸透し、いまなお続く呪縛力にはただ驚くほかありません。

 

 一世一元の元号の果たす役割(天皇という存在を人々の深層心理にまで入り込ませる)は恐ろしいほどのものと言えます。 

 江戸時代までの伝統の元号とは、大化(645年)から慶応(1868年)までの1223年間に244の元号ですから、一つの元号の平均の長さは、5年強です。天皇在位とは結びつかず、頻繁に変わる時代名でした。江戸時代では庶民は、時間を測る尺度にはならないので、干支(12年×5=60年で一巡)を使っていました。  ちなみに、最初の「大化」は、4年8カ月。次の「白雉」も4年8カ月、「朱鳥」6カ月、「大宝」3年1カ月、「慶雲」3年7カ月です。 最後の江戸時代末は、「万延」11カ月、「文久」2年11カ月、「元治」1年1カ月、「慶応」3年5か月です。

 

 ※また、天皇という中国にならった呼び名は、天武(673年)が最初であり、平安初期の村上天皇までで、その後は800年間もの間「天皇」と呼ばれる存在はいませんでした。天皇と呼ばれた一族は、実権を失い、京都のローカル王にすぎなくなったからです。「天皇」の復活は、江戸時代後期の光格天皇まで待たねばなりません。しかし、今日でも、今上(こんじょう)とか御門(みかど)などと呼称され、死後は「〇〇院」と呼ばれた存在もみな「天皇」としているのは、明治維新による歴史の改ざんのままです。明治政府の方針(日本の歴史は天皇の歴史というウソ)にいまなお従っているのでは、あまりに愚かです。スサマジイまでの洗脳が続きます。


武田康弘

 

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