思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

フィロソフィーとは主観性の知です。「客観」とは背理。楽しく豊かに。

2019-07-07 | 学芸

 

 客観とは背理であることを踏まえるのが「認識論」の基本なのですが、この純哲学領域の極めて大切な原理を弁えない人が、あまりに多く、そのために、無用の混乱が生じます。

 

 どのような見方もみな「主観」であることを明晰に意識しないと、争いが絶えません。民主制も公正や公平という概念も客観ではなく主観です。

ただ主観にも種類があり、感情を爆発させるような主観もあり、落ち着いた主観もあります。自由で豊かな主観もあれば、固くて意固地な主観もあります。言葉ではとても説明しきれない多様さを持ちます。だから人間は面白く、豊かで、楽しく、生き生きとします。

 

 話をするときに何より大切なのは、自分の感じ方・想像世界のありよう・よいと思う考え方を正直に述べることです。一番困るのは、それを開示しないで、「○○は○○であるはず」と決めるような発言・行為・生き方です。客観的真理(あるいは「もどき」)が存在すると思う心が、人間性の根源=エロース領域を犯してしまうのす。

 

 会社組織であれ国家機関であれ、管理者側の人は、この客観という神話に囚われている人が多く、現状に対する無難な思考や多数派を正しい(=客観)と信じます。調停者である自分の判断(それも主観なのですが)が正しいと思い込みます。役人的気質です。こどもの頃からお受験で、生き生きとエロース豊かに生きてこなかった人は、客観的真理があると思い込む「客観宗教」に囚われてしまう不幸に陥りがちです。日本人ものびのび楽しく、人間性豊かに生きたいものです。


武田康弘


 

 

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