日本語は、相手を呼ぶとき、自分を呼ぶとき、いつも必ず、上か下かを意識しないとなりません。この言葉の使い方は、無自覚領域にまで入り込んでいて驚きます。その実際のありようを説明したのは、「ことばと文化」(岩波新書)で、すでに古典的な書です。
自分と相手のどちらが上か下か、というふだんの意識は、勝つか負けるか、という意識と重なります。勝ち負け、勝負、上下意識、目上、目下、というのは、人間的な柔らかさ、豊かさとは異なり、おれが上だ、お前を下にする(あるいは逆のヘリ下りでどちらも同じこと)、となります。
それは、日本人の好戦的な気質そのものです。隣の家より上!?下!?とか、他人の不幸は蜜の味、とかの日本人の意識は、爬虫類の戦闘脳のようです。学習もお勉強と呼び、勝つか負けるかであり、経済も勝ち組vs負け組であり、ほんとうの助け合い=公共など不可能です。公共まで勝ち負け(笑)。
スポーツも楽しみではなく、とにかく勝負ですし(スポーツという英語は元々そういう意味ではありません)、知的営みや芸術的営みも、勝負!!(笑)です。日本には受験勉強しか存在せず、それは全然知的ではありませんが(クイズの知にすぎない)、それに気づいている人も稀です。アインシュタインなどの天才は、日本の基準で測れば、落ちこぼれか不良です。
どうやら、人生は、実存としての意味充実とは無関係で、内的豊穣とも無関係で、こころの内から湧き上がる自然なよろこびとも無関係のようです。上か下か、勝つか負けるか、という爬虫類のもつ戦闘脳に依拠した生を貫くのがわが日本人!!?? 確かに、よく言われる「政治的」国民(人を右とか左とか色分けし、政治の議論をするのはご法度!ーゆえに底なしに政治的)ですね。
なにもかもシステム化され(天皇・元号システムはその頂点=象徴です)「システム 内 人間」ですから、枠組み・システムをそれ自体を意識し、変更しようなどとは考えもしません。従順な生徒、従順な会社員、従順なお役人、従順な〇〇です。上下意識と勝ち負け意識で固められている日本人には自由(実存としての生)がありません。あんたより上よ!弁えなさいよ!とお上品な顔をして声に出さずに言う(笑笑)。それがわが日本人の正体かな。あれれ、なんとも愚かで不幸ですね、でも気づかないで一生終われば、幸せ?
デルフォイの神殿跡に座るわがソクラテス教室のソクラテス爺。
撮影は、昨年、染谷裕太君。
武田康弘