思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「自分の理性を使う勇気を持て」-2  イマヌエル・カント 『啓蒙とは何か』(1784年)

2020-03-23 | 学芸

 わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。そうすれば、自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金を払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。

 多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかし、それは後見人を気取る人々、なんともご親切なことに他人を監督するという仕事を引き受けた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは、飼っている家畜を愚かな者とする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜たちがひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると、脅かしておくのだ。

 ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、その後はひとりで歩けるようになるものだ。ところが、他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、その後は自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。

 ・・・・この未成年状態はきわめて楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。それに人々は理性を使う訓練すらうけていない。そして、人々を常にこうした未成年状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。これらは、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。

 誰かがこの足かせを投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を跳び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから、自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、しっかり歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。

 

ーー明日に続くーー

 

【啓蒙とは何か】1784年 イマヌエル・カント(1724~1804)著 中山元さんの訳文を使わせて頂いています(改行・太字などは武田)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする