思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

18世紀のドイツから21世紀の日本のみなさまへ 「自分の理性を使う勇気をもってください」イマヌエル・カント 

2020-03-27 | 学芸

 

「自分の理性を使う勇気を持て」  イマヌエル・カント 『啓蒙とは何か』(1784年)



 啓蒙とはなにか。それは、人間がみずから招いた未成年状態から脱け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。

 人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態に留まっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。そうすれば、自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金を払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。

 多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかし、それは後見人を気取る人々、なんともご親切なことに他人を監督するという仕事を引き受けた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは、飼っている家畜を愚かな者とする。そして家畜たちを歩行器のうちに閉じ込めておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜たちがひとりで外に出ようとしたら、とても危険なことになると、脅かしておくのだ。

 ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、その後はひとりで歩けるようになるものだ。ところが、他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、その後は自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。

 ・・・・この未成年状態はきわめて楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。それに人々は理性を使う訓練すらうけていない。そして、人々を常にこうした未成年状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。これらは、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。

 誰かがこの足かせを投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を跳び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから、自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、しっかり歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。

 このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜け出すのは、ほどんど避けられないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が、わずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。  このような人々は、みずからの力で未成年状態のくびきを投げ捨てて、誰にでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。

 もしも一つの世代の人々が集まって誓約し、次の世代の人々がきわめて貴重な認識を拡張し、誤謬をとりのぞき、さらに一般に啓蒙をすることを禁じたとしたら、それは許されないことである。これは人間性に対する犯罪とでも呼ぶべきものであろう。人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。だから次の世代の人々は、このような決議を、そもそも締結する権限のない者たちが勝手に決めたことして、廃止することができるのである。

 すべての人に変革しにくい宗教制度に合わせて一生をすごすようにと強制するのは、絶対に許されないこと(注)である。これを認めると、その間は人間が改善のための進歩を続けることを否定する結果となり、人生を不毛なものとし、子孫にとってもまったく有害な遺産を残すことになるからだ。

 啓蒙を放棄することは、その人にとってもその子孫にとっても、人間の神聖な権利を侵害し、踏みにじる行為なのである。

 

 【啓蒙とは何か】1784年 イマヌエル・カント(1724~1804)  中山元さんの訳文を使わせて頂きました(抜粋編集と太字などは武田)。


(注) 変革しにくい宗教制度のうち、最大のものは国家宗教です。政府が定めた宗教性を帯びた制度や儀式など(税金が使われる)は、そこから自由になることがきわめて難しいものです。現代の日本では、天皇儀式や、天皇という存在をいやでも意識させられる一世一元の元号制度(明治政府の岩倉具視が創作)、それを役所において事実上強制していることは、カントのいう変革しにくい宗教制度の最大のものといえましょう。一人ひとりが出来る限り世界暦を用いる努力=自分の理性を使う勇気をもつことが大切です。



 今年生誕250年のベートーヴェンは、強い信念をもつ共和主義者でしたので、カントの講義を聴講しようと準備していました(実現しませんでしたが)。
カントは、当時のドイツの現実を見て、啓蒙君主の存在を認めていましたが、それは時代のもつ制約という意味であり、思想としては共和主義者でした。
 ベートーヴェンは、音楽イデーの創造者かつ信念ある共和主義者でしたので、共和主義の理念を掲げ、第九(交響曲9番ー合唱付)をつくりました。
そこでは唯一者としての神(一神教・キリスト教)ではなく、すべて複数形で「神々(God)」として詩を書いています(元はシラーの歓喜によす)

武田康弘

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