思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

白石優子さんと武田康弘によるコメントやりとりー2 科学と哲学 (了)

2020-05-01 | メール・往復書簡
 

白石 優子

私の記憶によると、知覚心理学の時代には意識はブラックボックスで、認知心理学になってから、選択的注意の問題が出てきた。

中心窩は色かたちを判別するが、周辺視では動きを感知するとか。

無意識と言われるのは自律神経系で空腹になればお腹がなるのは無意識と呼べるか?

むしろ、意識せずに取り込む情報のほうが遥かに多く、その中で意思を持ち取り込む機能のほうは少ない。しかも、よく使う機能は、ニューロンが構築され伝達速度は速いかわりに、使わない神経細胞は毎日おそろしいほど死んでいく。

フッサールについてはよく知りません。哲学的な手法を否定しているため、役に立たないと思われています。

ただ、個人的にはゲーテの色彩論はすごいと思った。内観報告という自己観察を通じて、かなり具体的でユニークです。

観念論は意味ないし。

武田 康弘

だんだんと核心に迫っています。

個別学問(認知心理学など)と哲学(認識の価値論)との違いと、その位置づけの問題です。

哲学の認識論(フッサールの現象学が代表)がないと、個別科学の心理学は根が張れないとわたしは確信していますが、その点はどう思われますか?

「意識せずに取り込む情報のほうが遥かに多く」はその通りですが、

それを意味付け・価値付ける意識の働きをよく自覚しようとする営みがないと、不味いですよね。意識化・自覚化の営為です。

 

白石 優子

これは、人間の視覚の仕組みであって、鳥やトンボになると中心窩を持たず、動きから識別するのでしょうかね。
牛は色盲だし、哺乳類で色彩を識別できるというのは珍しい。
つまり、高次精神機能と知覚の仕組みを同列に扱うのは困難だし、知性があるのは人間だけだし、知能は動物にも人間にもある。
簡単に単語で締め括れないし、証明が必要。哲学では実証や実験は必要ない。

意識下というのは、単に高次精神機能以外に人間の生物的な機能を維持するに必要なものです。

ただね、泣くから悲しくなるのか、悲しくなるから泣くのかという有名な理論がありましたが、人間は泣くと悲しくなるそうですよ。そういう意味で、意識下の意識化というのも無意識による制御を受けているし、赤ちゃんが泣くのは悲しいからではない。

別の赤ちゃんが泣いていると他の赤ちゃんたちも一緒に泣き出すそうで、共鳴するということと情緒は別のもので、悲しいなど感情や情緒が関係してくるのはもっと発達してからです。

武田 康弘

心理学であれ大脳生理学であれ、どのような知や学であれ、個々の事実を知るという営みは、その営みに意味や価値を見出しているからですが、

人間の生にとり、各々の個別学問とその成果とされる事実には、どのような意味があり、なぜそれに価値があるとするのか、それを探求するのが哲学の仕事です→主観性の知。

実験観察して実証できる領域は、対象を狭く限定する個別学問(個別科学)ですが、そこで得られる事実は、人間の生の意味と価値という、実証という概念が不成立な生の底板です。

ですから、個別科学(学問)と哲学は対立するものではなく、人間の生の意味を考え、生を吟味する営みに支えられて学知は成立するのです。

この原理を弁(わきまえ)ることは知の基盤ですが、それに無自覚な学者ばかりなのが日本の現実で、これでは根がない学知になり、不毛です。

(これは学ではなく芸術にも言えることですが)

 

白石 優子

哲学タブーの世代だから仕方ないです。

それは哲学だ、言われたらボツ。

それこそまだ新しい分野だったから。

とりあえず教養としてラッセルの西洋哲学史くらい読めというのが性格の悪い高校教師で、仕方なく読んだら中世史で退屈になりボツ。

哲学は流行らなかったし。

やっぱり人間生物学は面白かったし、精神を科学するということは魅力的だった。

当時はAIもないしね。

実験は楽しいですよ。

データがすべて。

統計的な有意差のほうが正直。

武田 康弘

白石さんの個人的な楽しみやよろこびがどこにあるかは分かります。

ただし、それは、普遍性のある学問論にはならない(なりようがない)ですね。

感想・思い出だけの話に留まります。

でも、白井さんが正直に書かれるので、実証科学のみを立場にすることの問題性が浮かび上がり、これからの教育をどうしたらよいかがハッキリします。

人間論、西欧哲学に縛られない実存論と認識の原理論を必修にするようにしないと、日本人の知的退廃はどんどん進みます(受験知の東大病)。ただの「事実学」だけとなり、「意味論=本質論」はなく、知は根を張る場をもたいないので、切り花の世界で終わります。

日本における芸術も同じ。

白石 優子

個人の意向というのがあると思うんですよ。スコラなんぞつまらんし、それなら比較宗教学のほうが楽しいと感じるのは、学問ではないですよ。単なる趣味の領域だし、脳をアクティブにしておくことは大切ですから。  だけど、最大のアクティブさは感動においてのみ得られると思いますよ。だんだん加齢していくと、感動が薄くなる。加齢とともに味覚が衰えるようなものですかね。

料理は後から覚えればいいけど、食べたことのないものは作れない。だから、教育、ってことだったら、それこそ経験や体験のほうが記憶として蓄積される。 逆に職人なら、料理の方法を知り、後から考えて作りますかね。

武田 康弘 

 それは、賛同です。わたしの教育はそういう考えと実践で44年間続けてきました。ゆえにこどもたちは大喜びで奇跡のような話もたくさんあります。一般人(大人)には受けないですが(笑)

また、感動も賛成です。わたしのBlogをご覧になれば、情熱や感動がキーワードになることはお分かりと思います。

愛情とそして理性です。

武田 康弘

「教育、ってことだったら、それこそ経験や体験のほうが記憶として蓄積される。」

は、わたしもそう思い、実践を続けています。

同時に、人間の認識とはどういうものか、を例えば「ことばと文化」(岩波新書)を使い教えています。それは、極めて重要で、そのような原理的な次元での押さえは、優れた思考のためには必須です

 

コメント
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