わたしが、3月2日のblogで書いた通り、安倍首相は、憲法に非常事態条項を創設する、意向を示しました。
いま出されている「緊急事態宣言」と「緊急事態条項」は、言葉は似ていても、まったくの別物で、条項は主権者一人ひとりの自由権をはじめとする人権を、国会の承認なしに制限できるものです。
政府の一存で(今で言えば安倍首相の一存)で、強い私権制限ができるものです。三権分立の停止、人権の大幅な停止を可能とするのが緊急事態宣言で、ヒトラーはこれを使い、独裁政治を進めました。
感染症などに対応するには、いまある憲法の枠内で十分に可能ですので、まったく意味のないのが緊急事態条項です、緊急事態条項は、全面戦争の時にだけ有効なもので、政府の一存で、全国民に有無を言わせずに戦争協力をさせる場合にのみ意味を持ちます。個人の意思を消去して、政府の戦争決定に誰も逆らえなくする以外には、実際上の意味も意義もないのです。
(注)自由権など人権の制限とは、警察力を用いて、物理的=暴力的に市民の自由を取り締るという意味で、いまの緊急事態宣言とは全く意味が異なります。
以下は、3月2日のblogの再録です。
(写真は毎日新聞より)
かねてから、安倍晋三が最も望み、憲法改定の目玉中の目玉と考えていたのが、非常事態条項の新設ですが、
彼は、新型コロナウイルスによる肺炎の流行を、この望みをかなえる最高のチャンス!と捉え、小・中・高の全国一律の休校という前代未聞の要請をだしました。他に相談せずに一人で決めたのは、まさに首相一人で出来る非常事態宣言の予行練習として、「正しい」!決断でした。
エリート政治家にとって、国家主義=愛国教育(日本の場合は天皇教=元号教を国民に染み渡らせることで実現できる)に基づく政治以上の望みはありません。
なにかもっともらしい理由をつけて、全権を首相が掌握できれば(非常事態条項を立法化する=かつてヒトラーが全権を掌握した手法)、事は思うがまま。なんでもできます。非常事態法を発令するぞ!というゼスチャーを見せれば、みな何もできなくなります。首相に従うのは当然で、反対者は和を乱すもの(非国民)となります。また、その条項があるだけでも、首相の意向に従うのを当然とする意識をつくりだします。
それにしても、さすがの安倍首相です。この機を逃さす、こどもたちのため(こどもへの感染はとても少なく30才以下の死者は一人もいない)という言い訳により、非常事態条項がない今、「要請」という形で非常事態をつくりだし、国民を慣らす。その後でいよいよ憲法改正の目だま=非常事態条項の新設に向かう、よく考えられた戦略です。さすがの安倍首相です。
主権者は私、という意識に乏しい国(哲学なしー精神的自立の弱い国民)では、案外簡単にこれが通る可能性があります。まだまだ日本とはそういうレベルの国なのかもしれません。どうしますか、若者たち。 じじいの私は、民主制=民主政=民主性を前進させるために頑張り続けます。古代の実存思想(ソクラテス・ブッダ・老子)に学びつつ、恋知(ほんらいのフィロソフィー・Love of thinking)という発想と態度により。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室客員調査員=哲学と日本国憲法の哲学的土台を国会所属の官僚に講義)