一神教にすがるしかない人生(日本では明治政府が作った天皇教)、
それを超えようとマルクス主義。
双方から逃れようと形式的な正しさ(深い嘘)をつくり絶対化する世俗教。
哲学も西欧の言語ゲームとしての哲学なので、それへの参加可能者はごく少数。
何を拠り所としたらよいのか?
答えは、2千数百年前にブッダが出しています。
最も尊いのは、神ではなくあなた自身=人は誰もみな「天上天下唯我独尊」として生れてきた、と。
遺教では、「自帰依ー法帰依」といい、透明な意識をもつ自分自身に帰依せよ、と。
誰かに(生者であれ過去の人であれ)依拠せず、いまのわたしの透明な意識を拠り所にする、というわけですが、
このブッダの根本思想を現代に活かすのが恋知という発想です。それは、世界で一つのわたしが「感じ・想い・考える」により始まる人生で、わたしの実存のドラマは、一般性に沈んでしまわない浮遊する力をもちます。「わたしの人生はわたしのもの」を現実に生きるのが、恋知する実存者です。よく感じ、広く想い、深く考えようする心が、わたしを支え、新たな世界を拓きます。
恋知の生とは、形と序列の二文字ですべて収まる日本文化=日本人の生き方とは対極ですが、それは、何よりも自己を肯定し活かす生と言えます。
武田康弘