国ではなく、政府ですね。
政府にいちゃもんつけないマスコミでないと、民主政の国にはならないのです。それは恐ろしいことなのです。
時と場合による。
信号待ちがバカバカしくなるような場合でも、赤信号なら止まる。
それが交通事故のリスクを減らしているのは事実。
嫌ならイギリスみたいにロータリーにするか。
信号をつけすぎるとドイツみたいによく分からなくなる。
確かに旧民主党政権のときのマスコミの政権批判は、批判ではなく、悪口の言い放題で、冷静な論理を欠いていました。批判とはいえないイチャモンで、感情的でした。
今は、過激な長州閥の政治家で、こわいので、黙らされています。
どちらもおかしいのです。
要するに、どの程度、国民のコンセを得られているかで法律も制度も変わるから、批判より要求ですね、大事なのは。
日本車は、安全運転機能はオプションなんですが、ドイツだと小型車でも標準装備。
安全についての考え方が違う。
日本ならセイフティドライブは高いから要らない人は付けないでも構わないけど、ドイツだと要らないという選択肢はない。
悪口・罵倒ではない「批判」は、デモクラシーの基本要件です。
主権者を人民とするのが民主政国家ですので、公民=市民国家では、一人ひとりの主権者の意思を行使する者を選んで政治を行います。
ドイツは徹底した民主政を志向しますので(戦前思想のナチズム=全体主義は禁止されていて取り締まりの対象です)。日本とは元が異なりますが、日本もこれから民主政の社会・国にしていく他はないはずです。異論や批判により内容を豊かにするのです。それが民主主主義の手法であり、思想です。
民主主義がいらないという選択肢はない、それは多くの先進国の基本条件です。個々人の主権者の自由と責任によりつくるのが公民=市民国家ですから。従って、主権者教育を学校でやらないとなりません。
様、具体的には政府の政策についての批判なら構わないけれども、どうして安倍総理だけが批判になるのか不思議です。
議会政治だし、政党で話し合って決めているし、与党内野党である公明党の意見も反映されているわけで、支持する国民も多い。
安部首相のやり口の凄まじさゆえです。故中曽根元総理も福田総理も厳しく批判した通り、その方法は、国会を実際上なきものとしたヒトラーの手法にダブります。内閣ですべて取り仕切るのです。この危うさを認識すべきでしょう。
なお、個々の政策への批判はもちろんしてきました。
武田さんのほうが洗脳されていますね。思想にバイアスがありすぎ。
誰でも皆、状況の中で感じ、想い、考えるのですから、その人が生きる社会の思想・価値観を身に付けています。
フィロソフィーは、それを当たり前とせずに、大元から、白紙に戻して考える営みです。
そうしないと、状況に飲みこまれるだけになりますから。
わたしは、できるだけ白紙に戻して考えたことを提示しますが、なぜそう考えるのかを説明しています。
その提示と説明に対して、異論があれば出してもらい、検討することで、見方・考え方は段々と深まっていきます。
「思想にバイアスがありすぎ」(白石)とは、状況からの自由を得ている証左ともいえますが、バイアスが悪い意味でかかっていると思われたら、どのようにマズイのかをお話ください。
他人への押し付けが迷惑です。
白石優子さんが、はっきりと、とても強く自説を言われるので、
それに対して、わたしの見方・考え方を示す必要にかられた、というわけです。
違いが鮮明になるのは、よりよき見方・考え方を得るためにはよいことと思いますが。・・・
というか、私はリアリストなんです。現状認識のほうが遥かに重要だし、今は中国やWHOを批判していますが、それはアメリカに感染拡大する前からです。アメリカに同調しているのではなく、どうして中国をもっと早く入国拒否にしなかったかというと、WHOの判断を参考にしていると政府が言っていたからです。
それ以来、WHOがおかしいと思い始めた。
それは思想とは関係ありません。
その際に、WHOに乗って中国を入国拒否にしてなければ当然政府を批判するし、果たして武漢だけでよかったのか?
先に中国から日本人を入国拒否にしてくれてよかったです。
思想から批判するタイプではないんで。
ただし、共産党は嫌いです。
リアリストの対語はロマンティストですが、どちらも思想です。思想のない人間はいません。人間は価値観の束=思想をもち、それにより判断し行為するので、意識するとしないに関わらす、思想をもっています。その内実がどのようなものかをよく見て自覚することは、自分の判断の良否や浅深を知る上でとても重要です。
父が思想かぶれを嫌っていたので。
「思想カブレ」は、確かにダメですね~
リアリストだと、人間の反面しか見れていないですし、ロマンティストもそうですね。両面があるのが人間精神のよさ、ではないでしょうか。
実験実証主義です。
精神物理学というのもありましたが、今は認知心理学、そこからAIへ。
思考と感情は違います。
かつては行動から人間の研究をしていて、それ以外はブラックボックスと言われていたけれども、知覚の研究は人間の可視範囲を周波数から捉え、精神にもいろんなジャンルがある。
個人の内観を精神と定義するだけでは、人工知能は生まれなかった。
人間の意識は、なにものかについての意識ですので、意識の本質を「志向性」と呼びます。
各科学の対象となる意識は、まさしく「対象化された意識」に留まり、意識の働きの意味は、志向される事象と共にしか考察できないのです。
AIの出現は、問題の本質を少しも変えるものではありません。個別の科学の進展と人間の認識問題の本質とは次元を異にする話なのです。
志向性は、選択的注意と呼びます。
脳内伝達物質の構築が違うので、話は噛み合わなくなりますから。
メルロ=ポンティはNGで、ノイマンだったらギリギリかなあ。
それは、フッサール現象学における志向性の概念を呼び変えたものですね。
志向性という言葉=概念を最初につくったのは、フッサールの師のブレンターノですが、
フッサールは、志向する働きに意味付ける意識の働きを含めて「志向性」という概念をつくりました。詳しくは、「イデーン」Ⅰの あとがき にあります。
私は読んでないから知らん。
思想というと、その人の社会的な行動規範といったもんでしょうかね。
志向性は、型にはまった行動様式でしょうかね。
意識というのは脳の仕組みですね。
それは全く違うのです。
例えば、セザンヌがつかった絵具の化学的分析をしても、あるいは絵画様式上の研究をしても、セザンヌの絵の意味は分かりませんし、絵からのよきもの(感動)は来ません。
人間の意識の意味も同じように、大脳の仕組みを研究しても分からないのです。
仕組みの問題と本質は違うのです。「主観性の知」こそ人間知性の目的だと言われるのもこの文脈においてです。
意識の意味と価値を問題を扱うのが哲学の認識論です。
その認識本質論の土台の上に、各精神科学があるのですが、日本では精神分析や精神医学が、認識論を踏まえずに行われるために、土台がない状態で、そこに不毛性の原因があります。
臨床は専門外だから知らん。精神科は薬。診察3分。診断学としては、目だそうです。日本ではカウンセリングでもいろいろな療法が行われていて、分析より正常なコミュニケーションの回復。
何をもってして正常とするかは職業的バイアスもあれば、人種や国籍、文化によっても違う。
アマゾンでの普通が、日本で普通かどうかは違いますからね。
感動は脳をアクティブにします。セザンヌに感動するかどうかを質問した結果、瞳孔反射による矛盾があれば、彼は嘘をついている可能性が高い。
実際、運動や学習に意識は必要ではないし、意識せずとも心臓は動き呼吸はできる。無意識に歩行できるし、学習により、無意識に信号に従う。
前意識や無意識領域も含めて意識活動と呼びます。意識は氷山の海面上の部分で、大部分は海面下です。それが前意識さらに無意識領域です。
ただし、この無意識領域もなんらかの方法で意識化しないといけませんが。
ここからが面白いのですが、これをやると夜が明けるので、また明日にしましょう。