以前朝日新聞をとっておったのだが、飽きたので、今は讀賣新聞をとっておる私である。
私は新聞の文章というのが大嫌いである。内容云々の前に、文体がいかん。ある内容を表現できない文体というのがあり、それが新聞の文体である。三島由紀夫が以前、毛沢東の文章はいいが、その子分の文章は読めたもんじゃねえ、といっていたが、新聞の文体というのは、その子分の文体なのである。要するに、奴隷の文体である。ときどき、新聞を用いた作文指導だかなんだかをやっている教育活動がある。(しかもその宣伝を新聞でやっているw。)奴隷根性を子どもに植え付ける魂胆であろう。これをメディアリテラシーのつもりでやっているらしいから笑わせる。
とはいえ、そんなことは今にはじまったことではない。官庁が絡んでいる作文コンクールというのがあって、ときどき新聞に総理大臣賞とかなんとかで受賞作が全文掲載され、子どもの顔写真も付いていたりする。普段、総理大臣を社説でこき下ろしている癖に、なぜこのような賞を批判しないのだ?それに、子どもの作文を批判することもタブーに近い。ファシズムからマルクス主義にいたるまで、イデオロギーを子どもに復唱させて大人の批判精神を萎えさせる卑怯な手段が横行していたわけだが、いまでもそれは大して変わらない。現在はもっと悲惨で、大人が子どもっぽく振る舞って自分を正当化する癖を付けている。すぐ泣いたりキレたりするのはそれだと思う。……これに較べれば、『赤い鳥』の「ありのままの子ども」路線がいかに反社会的だったかが分かる。『赤い鳥』に載っている子どもの作文は、案外どぎついのがあるのだ──そりゃそうだ、子どもはただの遠慮がない教養のない大人なのだ。この路線がなければ豊田正子なんてのは出てこないし、太宰の「千代女」の主人公みたいな邪悪な作文少女は出てこないのである。北原白秋なども審査委員とかでかんでいたが、子どもに「将来は邪宗門を書け」という企みであったに違いない。
先日、讀賣新聞に載っていた「わたしたちのまちのおまわりさん」コンクールの受賞作も×かった。大人が書いたのなら問題外、子どもが書いたのだとしてもあまりよくなかった。まあ、最悪、子ども時代はこんなでもよいかもしれない。ただし、思春期以降、「こんな内容はレベル以下」と否定する大人や教育者がいなければ我々の言論空間はいつまで経っても自主的な言論統制を抜け出すことはあり得ない。
そういえば、私も小学校の時、道路を守る月間だかの作文コンクールで、……たしか長野県で優勝したような気が……。すみません、あれは担任の先生が芭蕉のこととか関所のこととか書けと言ったので……書いたのです。先生は作文には感想ではなく知識が必要だと教えてくれたのだからまあよしとしよう。
私の経験からいっても、作文コンクールを総なめにするような子どもは将来的にだいたいダメである。私がいい例だ。苦労する。