授業で使えないかと思って「仁義なき戦い」を続けて見直してみた。ヤクザ映画とはいえ、ほとんどサラリーマン映画みたいであった。もともと我々の社会には仁義なんてものはなく、ヤクザの社会と同じである──実際の暴力のやり取りを抜けば、構造的に同じである。柳田國男がどっかでいっていたように、親子という言葉がもともと親分子分のことであるとすれば、堅気の「家」もヤクザ組織──がいいすぎなら会社のようなもんであるといえよー。先日みた「幸福な食卓」で父親が「お父さんやめるわ」とか言えるのは、我々の家族が会社的であり、いつのまにか、その組織の維持が目的化しているからである。
ヤクザの組織には血のつながりはなく、疑似家族であることが前提だから、まだ「仁義」が「観念」として強固に守られようとするし、また逆に廃棄される時はあっさりとしたものである。主人公格の広能が「親」の山守と「親の敵の如く」反目できるのは、本当の親じゃないからである。実際の親だったらこうはいかない、というかもう少し複雑でヒステリックなものになる。また普通の堅気の組織だったら、ここまで親(雇い主)の恩義を感じる必要もないから、反目する必要もなく、勝手にわからんようにサボタージュでもすればよろしい。のみならず、この映画も基本的には勧善懲悪だから山守という男は非常にずるがしこいどうしようもない男であるように描かれているが、普通雇い主はここまで酷い奴とはかぎらない。どんなアホなボスがいても普通はそれとなくやり過ごし我慢する……というわけで、ずるずると憤懣をためながら暮らして行く他はない。しかも堅気の世界は暴力禁止だから、どうしようもない。そこに耐える覚悟を持つのが堅気の世界である。ヤクザが暴力団という名称に変わって久しいが、そりゃそうだ。市民社会とのちがいはそこに「しか」ないと市民が直観しているからだ。実際どうなのかはともかく。
というわけで、ヤクザ映画が人気がある(あった)のは、我々が憤懣が行き着く先を原理的可能性として描いているように思うからであろう。ほぼ同じだが、少しの違いで決定的にそうはならぬ夢として……。
とはいえ、第四作「頂上作戦」で、山守と広能の戦いに割って入る第三の新たな勢力があらわれる。市民と警察とメディアである。この映画は、この第三の勢力の圧倒的物量と同調圧力の前に山守も広能も簡単に負けてしまうというところで終わっている。広能と「兄弟分」の男が、刑を待つ広能に「新聞にもたくさん書かれちゃったし」とか落ち込んでいたが……、この男、「広島の極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんでぇ」と啖呵を切った男なのだ。日本社会おそるべし。
いうまでもなく、これはヤクザの敗北を意味するのではない。家や会社組織が、第三の勢力に敗北することを意味している。たぶんヤクザ映画の衰退、あるいは変容もこのことと関係がある。北野武のヤクザものでもヤクザたちは孤独でやたらキレる。つまり我々市民とまったく同じ症状なのである。「幸福な食卓」は、もう家族が最初から第三の勢力化しているなかで始まっている。もしかしたら、そうした危機感を作者は伝えたかったかも知れない。つまりテーマは、ヤクザファミリー復興である。
ところで、私は、広能をはじめとする暴れん坊たちをのらりくらりと使い切る山守という親分に興味を持った。こんな人物である↓
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結論から言うと、映画をみた限りでは、ホント早く死んで頂きたい人物である。しかし、妻帯もせず仁義に拘って死んで行く男たちに較べて、女に囲まれ刑期も短いこの人物こそ、ある種のフェミニストであり、革命家であったのではなかろうか。見方を変えれば、日本で革命をしようとすれば、こういう山守みたいな男にならざるをえないところに不幸があるかも知れない。
……とはいえ、私はホントのヤクザの世界も会社組織もしらんから、なんともいえないね。私は体が強くないから結論としては……
いろんな意味で暴力反対!
ヤクザの組織には血のつながりはなく、疑似家族であることが前提だから、まだ「仁義」が「観念」として強固に守られようとするし、また逆に廃棄される時はあっさりとしたものである。主人公格の広能が「親」の山守と「親の敵の如く」反目できるのは、本当の親じゃないからである。実際の親だったらこうはいかない、というかもう少し複雑でヒステリックなものになる。また普通の堅気の組織だったら、ここまで親(雇い主)の恩義を感じる必要もないから、反目する必要もなく、勝手にわからんようにサボタージュでもすればよろしい。のみならず、この映画も基本的には勧善懲悪だから山守という男は非常にずるがしこいどうしようもない男であるように描かれているが、普通雇い主はここまで酷い奴とはかぎらない。どんなアホなボスがいても普通はそれとなくやり過ごし我慢する……というわけで、ずるずると憤懣をためながら暮らして行く他はない。しかも堅気の世界は暴力禁止だから、どうしようもない。そこに耐える覚悟を持つのが堅気の世界である。ヤクザが暴力団という名称に変わって久しいが、そりゃそうだ。市民社会とのちがいはそこに「しか」ないと市民が直観しているからだ。実際どうなのかはともかく。
というわけで、ヤクザ映画が人気がある(あった)のは、我々が憤懣が行き着く先を原理的可能性として描いているように思うからであろう。ほぼ同じだが、少しの違いで決定的にそうはならぬ夢として……。
とはいえ、第四作「頂上作戦」で、山守と広能の戦いに割って入る第三の新たな勢力があらわれる。市民と警察とメディアである。この映画は、この第三の勢力の圧倒的物量と同調圧力の前に山守も広能も簡単に負けてしまうというところで終わっている。広能と「兄弟分」の男が、刑を待つ広能に「新聞にもたくさん書かれちゃったし」とか落ち込んでいたが……、この男、「広島の極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんでぇ」と啖呵を切った男なのだ。日本社会おそるべし。
いうまでもなく、これはヤクザの敗北を意味するのではない。家や会社組織が、第三の勢力に敗北することを意味している。たぶんヤクザ映画の衰退、あるいは変容もこのことと関係がある。北野武のヤクザものでもヤクザたちは孤独でやたらキレる。つまり我々市民とまったく同じ症状なのである。「幸福な食卓」は、もう家族が最初から第三の勢力化しているなかで始まっている。もしかしたら、そうした危機感を作者は伝えたかったかも知れない。つまりテーマは、
ところで、私は、広能をはじめとする暴れん坊たちをのらりくらりと使い切る山守という親分に興味を持った。こんな人物である↓
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結論から言うと、映画をみた限りでは、ホント早く死んで頂きたい人物である。しかし、妻帯もせず仁義に拘って死んで行く男たちに較べて、女に囲まれ刑期も短いこの人物こそ、ある種のフェミニストであり、革命家であったのではなかろうか。見方を変えれば、日本で革命をしようとすれば、こういう山守みたいな男にならざるをえないところに不幸があるかも知れない。
……とはいえ、私はホントのヤクザの世界も会社組織もしらんから、なんともいえないね。私は体が強くないから結論としては……
いろんな意味で暴力反対!