12月の授業が終わったので、先日は「幸福な食卓」、昨日は「亀は意外と速く泳ぐ」を観る。
結論をはじめに言ってしまえば、後者の圧倒的勝利である。
「幸福な食卓」は、自殺未遂をやったことがある父親が、「今日からお父さんをやめようと思う」というところはじまる。母親は家を出ている。長男は伝説的秀才だが、大学進学をやめて農業とナンパ?をしている。妹は、ちょっと単純でいい奴の大浦君とつきあっている。二人して難関高校にはいるが、大浦君がクリスマスプレゼントのためにバイトしていて急死し、その妹がなんとか精神的に蘇生するまでをえがいている。……で、私は思うのだが、このドラマの何が問題かといえば、誰一人として何かやりたいこととか使命を感じて生きている奴がいなさそうということである。父親にしても父さん(と学校の先生)をやめて何をやるかと思えば、医学部に入るために受験勉強をはじめ途中でちゃんと挫折して予備校の教員になってしまう。母親は何かの店員だし、こどもたちはいうまでもなし。このメンバーに、政治的な思想や宗教を本気で目指すやつがでてくれば話は崩壊する。キリストやブッタはいうまでもなく、何かをやるということは、家族や故郷を文字通り捨てることを意味するのである。隣人は家族より優先されるべきであるからだ。この話が家族の崩壊と再生の話だとして──、家族の成員がお互いのことを思いやっていなかったから家族が崩壊したのではなく、もともと家族同士で精神的に依存しすぎているから崩壊したのである。こんなことは大人の常識だと思っていたのだが、そうでもないのだな……。妹が大浦君と一緒に家を出て行けばよかったのだが、大浦君をドラマ上で殺してしまい、妹を家族に復帰させた結果、元の桎梏的状態にもどったな、この家族は……。このようなドラマは、成員の離脱を許さない、学校世界的発想にもとづいているのではあるまいか。作者は、根本的に大浦君が異質で邪魔だったから殺したのではあるまいか。……と思ったら、作者が元教員だった。
「亀は意外と速く泳ぐ」は、コメディであろう、たぶん。ここで私はこの作品を大まじめに解釈するぞっ。海外に単身赴任する夫をもつ平凡な生活に飽きた主婦が、百段階段で落ちてくるリンゴを避けようとしてへばりついた場所に「スパイ募集」の小さい広告をみつけて、スパイになる。しかし、スパイというのは、その素性がばれてはいけないので、平凡に暮らさなければならない。平凡を乗り越えようとしてますます平凡になってゆくという発想が素晴らしいなあ。スパイ仲間はたぶん全て独身者。公安に追われる彼らを救うために、変電所のケーブルを切って市全体を停電にする平凡主婦。それは、高校時代、「湯上がりの思い人を見たい」という彼女の願いを、幼なじみの友人がかなえてくれたやり方であった。まさに普段動かないような「亀」は、「意外に速く泳ぐ」ことがあるのである。家族という桎梏がなければ……。彼女は、最後に、フランスで逮捕された幼なじみを助けに旅立つ。……ここには勝手にリストカットする父親もいなければ、勝手に登場人物を殺す作者もいない。優しいのはこちらの話の方である。小田嶋隆氏がどこかで、この映画を「登場人物が主体的でない」日本的な物語として褒めていたが、十分主体的な人間をえがいていると私は思う。人間主体的でありすぎるとコメディにみえる、少なくとも日本では。普通の人の潜在的な主体性を確信している監督は頭がいい。「幸福な食卓」はそういった主体性を抑圧し家族のなかで何もするなといっている。
ところで、主演の女の子を比較してみよう。
北乃きい 対 上野樹里
私の好みでいっても後者の圧倒的勝利。