★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

名古屋で解釈学2

2011-12-11 23:08:29 | 文学


名古屋大学での国際研究集会「哲学的解釈学からテクスト解釈学へ」から帰ってきた。

三日間の集会のうち、金曜日は行けなかったから、この集会の名前の意味が最後までよく分からなかったが、一日目の松澤和弘氏や野家啓一氏の話を聞けば分かったかも知れない……。

全体として、非常に興味深く話を聞けた。私は、大学の頃、作者の死とか解釈学的循環とか論じている人々をみて、「ええっ、堂々と誤読したはいいが、作者がその人を恨んで殺しに来たらどうするんだよ」と思っていたぐらいである。今日も思ったが、ガダマーでも構造主義者でもいいが(この人達はだいぶ違う訳であるが……)、我々とは違った作者の専制を感じているのであって、そう簡単に作者が死んだり生き返ったりしないのである。たぶん、昔も今も日本で一番のタブーは「作者は読者より一万倍頭がよいので、読者はさっさと読解に励め」という言葉である。

とはいえ、私自身、解釈学の議論をまともに考えてこなかったにもかかわらず、こんなに影響を受けていたとは知らなかった。鎌田隆行氏の生成批評についての発表を聞いて、私の生成批評に対する反発の意味も分かったよ、知らず知らずに私も生成論的な批評に傾いていたからだ。ただ、聞かない方がよかったかも知れない。これで私もいやでも自分のやっていることに「方法的」に縛られるかも知れない。これこそ怖いことである。

ピエール・クロード氏やクレール・フォヴェルグ氏の発表を聞いて思ったのは、別に「方法」ではなく、深いテクストの理解と研究の蓄積である。これが「方法」に縛られるようになると、たちまち自分の研究と人の研究のとの量的・質的な比較が要請されてしまう。――同じ「方法」・土俵でのセクトの形成、その実、そのセクト内でのわかりやすい競争が始まるのである。有名作家の研究のあるグループなど、そういう感じで……

最後の討論で、クロード氏が、解釈論的な具体物として、モンティーニュの「エセー」を例として出していたのは嬉しかった。エセーは試論であり裁判官でもあったモンティーニュ自身の裁定に対する対話である。我々はあまりにはやく自分の頭の中の他人と対話しすぎるのではあるまいか。