

「ゴジラ」で印象的な場面の一つに、零戦だか自衛隊の飛行機だか米軍の借り物だかが、ゴジラにむけて撃ちまくって一応ゴジラが「ハイハイ」という感じで海に戻る場面があって(そうだったかな?)、そこで敗戦国民が「ちくしょうちくしょう」とつぶやくところがあるのだが、まさに「風立ちぬ」の主人公の作ったものが、怪獣に敗れ去った場面である。――当該映画の特撮監督は戦前、おもちゃの零戦を本当らしく撮るところから出発し、戦後、怪獣のリアリティの追求に移ったのであるが――「ラドン」や「モスラ」でも同じような場面はあるけれども、もはや「ちくしょう」すらなくなり、ウルトラマンになりゃすぐパイロットが機体を捨てて逃げる始末。
まさに、戦争が計算可能なものであると思っていたところ、怪物が出てきちゃったレベルだったというのが、前世紀の教訓なのである。
その意味で、宮崎駿の映画は、その怪物が出てくる以前のところでうろうろし続けたといえよう。地震が人のうなり声で表現されているところが、そろそろ宮崎もゴジラまで後一歩と思わせるのであるが……、むろん、監督は、核戦争後の世界にも人間が生きるためにゃ緑が必要と考えるようなリアリストであって、怪獣を出したらおしまいなのである。
で、時代は怪獣だと思ってしまった人たちの末路の方であるが、それはそれで問題かもしれぬ。今度は、怪獣に合理性を持ち込みはじめたのである。原発を科学の力でどうにかしようとすることと同じである(同じじゃねえか笑)。「エヴァンゲリオン」の作者は、そこんとこよくわかっているらしく、すぐ
ゴジラやウルトラマンの怪獣にかろうじて残っていた神秘性は消えさったわけであるが、そこで残されたのは、問題の観念的処理と形象はとにかく合体させようという、
一方、ロボットは、戦争が計算可能だと思っていたところ、怪獣が出てきちゃったレベルであった現実に対して、「日本という猿にもいつか計算機の手を」という希望から始まった。軍事産業は大人の汚い精神の問題を抱えていたので、それでも生き残った文化を、よい心で統御すれば何とかなるという現実逃避である。で、メトロポリスのロボットは、心臓に原子力やらを蓄え、「絶対に爆発しない」、「爆発する時にゃ、太陽と心中」という原則を持ち、悪魔的な顔をしていても良心が残っている子どもによって、しかも一人ではなく複数によって運転、あるいは作戦を展開するということにして、一人の暴走を防ぐ……というまあ、おとぎ話を展開していった。アトムは人の大きさに縮小するすることで自衛隊的なポリシーを持っていたが、ウルトラマンが異星人であり人に任せている気がして正直気持ち悪いもんだから、ロボットをでかくして怪獣をやっつけさせる。というわけで、日本人は、そんなかんじで、いろいろやったあげく、敗戦と殲滅戦ののトラウマを想像できないバカが何のための表現なのか忘却してしまい、かつ趣味的だというレッテルに逆ギレしたのか、本当に好きな美少女などを描く方向に転向するもの多数。
そして、今回の「パシフィック・リム」であるが、日本人の代わりに、上の課題を最新技術を使いできる限りがんばっていた。――ということは、怪獣やロボットの造形も含め、いろんなものがほとんどパクリであった。
結論:「パシフィック・リム」。内容はまるでなし。(