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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

巨大ロボット 対 巨大怪獣 対 堀越二郎 対 芦田愛菜ちゃん

2013-09-16 09:19:42 | 映画


「ゴジラ」で印象的な場面の一つに、零戦だか自衛隊の飛行機だか米軍の借り物だかが、ゴジラにむけて撃ちまくって一応ゴジラが「ハイハイ」という感じで海に戻る場面があって(そうだったかな?)、そこで敗戦国民が「ちくしょうちくしょう」とつぶやくところがあるのだが、まさに「風立ちぬ」の主人公の作ったものが、怪獣に敗れ去った場面である。――当該映画の特撮監督は戦前、おもちゃの零戦を本当らしく撮るところから出発し、戦後、怪獣のリアリティの追求に移ったのであるが――「ラドン」や「モスラ」でも同じような場面はあるけれども、もはや「ちくしょう」すらなくなり、ウルトラマンになりゃすぐパイロットが機体を捨てて逃げる始末。

まさに、戦争が計算可能なものであると思っていたところ、怪物が出てきちゃったレベルだったというのが、前世紀の教訓なのである。

その意味で、宮崎駿の映画は、その怪物が出てくる以前のところでうろうろし続けたといえよう。地震が人のうなり声で表現されているところが、そろそろ宮崎もゴジラまで後一歩と思わせるのであるが……、むろん、監督は、核戦争後の世界にも人間が生きるためにゃ緑が必要と考えるようなリアリストであって、怪獣を出したらおしまいなのである。

で、時代は怪獣だと思ってしまった人たちの末路の方であるが、それはそれで問題かもしれぬ。今度は、怪獣に合理性を持ち込みはじめたのである。原発を科学の力でどうにかしようとすることと同じである(同じじゃねえか笑)。「エヴァンゲリオン」の作者は、そこんとこよくわかっているらしく、すぐ怪獣人造人間に天使の輪をつけたりして絵空事にしている。妥当な処理である……

ゴジラやウルトラマンの怪獣にかろうじて残っていた神秘性は消えさったわけであるが、そこで残されたのは、問題の観念的処理と形象はとにかく合体させようという、趣味芸術の王道の踏襲である。

一方、ロボットは、戦争が計算可能だと思っていたところ、怪獣が出てきちゃったレベルであった現実に対して、「日本という猿にもいつか計算機の手を」という希望から始まった。軍事産業は大人の汚い精神の問題を抱えていたので、それでも生き残った文化を、よい心で統御すれば何とかなるという現実逃避である。で、メトロポリスのロボットは、心臓に原子力やらを蓄え、「絶対に爆発しない」、「爆発する時にゃ、太陽と心中」という原則を持ち、悪魔的な顔をしていても良心が残っている子どもによって、しかも一人ではなく複数によって運転、あるいは作戦を展開するということにして、一人の暴走を防ぐ……というまあ、おとぎ話を展開していった。アトムは人の大きさに縮小するすることで自衛隊的なポリシーを持っていたが、ウルトラマンが異星人であり人に任せている気がして正直気持ち悪いもんだから、ロボットをでかくして怪獣をやっつけさせる。というわけで、日本人は、そんなかんじで、いろいろやったあげく、敗戦と殲滅戦ののトラウマを想像できないバカが何のための表現なのか忘却してしまい、かつ趣味的だというレッテルに逆ギレしたのか、本当に好きな美少女などを描く方向に転向するもの多数。

そして、今回の「パシフィック・リム」であるが、日本人の代わりに、上の課題を最新技術を使いできる限りがんばっていた。――ということは、怪獣やロボットの造形も含め、いろんなものがほとんどパクリであった。ロケットパンチが出てきたのは泣けた。原子力の問題もちゃんと処理していた。しかし、日本のテーマが、「風立ちぬ」も含めて、個人のトラウマをモノローグによって処理する敗者の自意識の問題なのに対し、「パシフィック・リム」のテーマは、マグネロボ何とかのまねという訳ではなく、日本とアメリカの弁証法的統一である。――アメリカ人男性と日本人女性の二人の心を合わせて操縦するロボットという設定なのである。二つの対立を一つに。多数の対立を、ではない。(エヴァンゲリオンが多数の対立と一人の問題を対照させていつもぐだぐだになる事態を参照。)たぶん、だからこそ、逃げ惑う群衆が出て来ないのであって、問題は、巧くいかない二人の問題解決なのである。まあ、いつものハリウッドご都合劇なのであるが、言うまでもなく、これは問題の揚棄に成功した勝者の論理である。この自信と厚顔無恥にはいつもながらびっくりする。ちなみに、ポスコロ研究ではよく言われていることであるが、支配者の男が植民地の女と結婚したり見かけ対等に仲良くするのは、コロニアリズムの王道である。が、今回よかったのは、怪獣から逃げ惑う群衆を一人で表現した愛菜ちゃん。十分近くも一人で逃げまくり泣きまくり、おびえまくり。しかしそこにアメリカンロボットの黒人パイロットが被爆しながら神様のように立っている。……むろん、これは現実ではなく記憶の場面なので、パイロットとして組んだアメリカの白人筋肉バカが、「これは現実じゃない」とか必死に彼女の記憶の暴走を止めようとするのだが、わかってねえなあ、これは現実ですよ。正真正銘の現実なんだよ、焦土の中に立っていたところ、アメリカがやってきて助けたところまで……。戦争を知らない愛菜ちゃんに表現できるというのに、いまの中年ときたら……。

結論:「パシフィック・リム」。内容はまるでなし。(日本人の代わりに黒人に被爆させてんじゃないよ、という感じであるが…