十年以上ぶりに「のど自慢」を観た。のど自慢している人の後ろに、みんなで揺れてる順番待ちの出場者の様をみて、寒気がして以来観ていなかったのである。だいたいこの番組は、「のど自慢」したい素人(昔は「のど自慢素人演芸会」だった)が、プロの演奏者に伴奏してもらい、結句、広い舞台でさらし者になり、横からそそくさと出てくるアナウンサーの、「まあまあ、
下手ですながんばってました。ところでお父さん、家族が来てますか。ああそうですか、ちゃんと家族守るために働いてくださいね、
歌はあきらめて。はいはい、
家族と地域の絆っていいですねえ、あなたにゃそれだけしかないんですから、がんばってくださいな。
人生最後の檜舞台でした。またきてくださいね」というメッセージを全国民が自分のことのように受け取り、「やっぱプロの歌手のうまさはとんでもないな」と再認識し、プロの歌は夢や悲しみを与えるが素人の歌の下手さは人々を結びつけるということを知しらしめるという、――国民的一体感を上からインストールしようという戦時政策の延長であるところの紅白歌合戦より、よほどましな番組なのであったが……で、その素人の群れの中から、ごくたまにではあるが美空ひばりなぞがでてきたというなさそうであるところの奇蹟が人口に膾炙するにつれ、視聴者はますます、自分たちの心根を歌謡曲、というより歌手たちが代行しているかのように錯覚するわけである。素人の矜持と謙譲を保ちつつプロへの感情的通路を確保した見事な仕組みだなっ。(ほんとかいな……)
しかし、時代が進み、素人がカラオケなぞで歌が巧くなってしまう喜びを知った時、あまりの出場者のマイワールド的ナルシシズムに危険性を感じ、背後に出場者の目を配して、なんとか失われようとする共同性をつなぎ止めようとしたのではないかとわたくしは愚考する。而して、この状態では、一つ鐘(
下手すぎて話にならん鐘。引っ込め鐘)をあまり連発する訳にはいかぬ。実際下手であるところのナルシストをあまりむやみに触っていけないからな。わたくしは、あんまり音程が正確なアマチュアではなかったが、さすがに今日の出場者は、ほとんどが「鐘一つ」だったと思ったぞ。でもだいたい「鐘二つ」なんだよね。んで、「かかかかかかかかんかんかんかーん」(合格←そなんですよ、この鐘は「合格」であって、そのほかはつまり「失格」なんですよ)をもらった人も、もっと爆発的に喜んでもよさそうなものである。だって、素人なんだから、なにに対して合格したのかはわからんが「合格」したらうれしいだろうが……。確かにプロなら「まあ普通です」という表情でもよかろうが、なんとなく、そんな表情を感じたのはわたくしだけではあるまい。プロとアマチュアの差は、技巧の差もあるけど、圧倒的に人の心に焼き付く妙なオーラを持っているか、いないかなのである。そんなものががたいした人生経験もなしに出てきてしまう特異体質の才能がプロなのである。それは今でも変わっていないと思うんだがなあ……。

カーン
まあ、すごいよ、全国に中継される中で歌うという勇気が……。歌はいつも心をこめて全力で歌うべし……これこそが結構難しい。