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私はこの宿へ来てから一年になる。その前は学校の近くの旅館にいたり、高燥なH街の某軍人の家などにおいて貰っていたが、最後に腰をすえたこの家が一番気に適っている。性来なまけもので、その上、人づき合のわるい私は、学校友達も煩く、勤厳な家庭で、酒は飲むなの、門限は幾時だのと干渉されては迚もやりきれない。その点で私は現在住んでいる宿を礼讃する。宿の内儀さんは私が酔って真夜中に帰宅して廊下の壁に頭をぶつけようが、靴のままで寝台の上へ倒れてしまおうが、一向叱言もいわなければ、忠告もしない。それでこそ倫敦も住甲斐があるというものだ。そしてまだいい事は、軍人の奥さんに支払う金額より、ここの下宿料はずっと安くて、遥かに旨いものを喰べさせてくれる。金の事にさもしくて、私を陰気にする。私は最う金はないのだ。
私の宿は繁華なV停車場通りから東へ入った、テームス川寄りの取遺されたような街にある。それは激しい活動の世界から忘れられたような日蔭の街であった。
私は卓子の上の吸い馴れた黄色い紙袋の煙草に火を点けて、汚れた窓ガラスを透してどんよりと暗くなってゆく陰気な街の空を眺めていた。
――松本泰「日蔭の街」