★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

もったいない北朝鮮

2014-12-24 07:00:54 | 映画
北朝鮮の親分をからかった映画がアメリカ?で上映されるというので、北朝鮮がサイバー攻撃をしたとか、アメリカがやり返したとか話題になっている。

だいたい、北朝鮮ももっと堂々としていればよいのである。ヒトラーは、チャップリンの「独裁者」を観て喜んでいたという。確かに、チャップリンの演技は、ヒトラーの演説のある種の滑稽なおもしろさまで逆説的に伝えているのであって、しかも最後はお気に入りのワグナーまで流してくれていたではないか。チャップリンの演説の「戦え」を聞いていきり立ったアメリカ人がいたとしたら、それはガンジーやものぐさ太郎の抵抗とは似ても似つかぬものであって、むしろヒトラーに近い心情すら持つに至ったのかもしれなかった、それでちゃんとアメリカも日本で大虐殺をやらかすわけである。

というわけで、その映画によって、北朝鮮は案外イケテルという観客が必ず現れたはずなのである。もったいない。実際に、NHKで流れたその映画の一場面は非常に面白そうだった。

国家が手を引けば万事OK

2014-12-24 06:14:59 | 大学
センター試験がなくなるぞというグッドニュースが聞こえてきたので、一瞬喜んだが、「思考や判断など知識の活用力を問う。このため問題は国語、数学といった教科の枠を超える」(朝日ドットコム)といった感じの記述試験を含んだかたちになるとか……。

わたくしのだめだめだった受験時代を振り返って覚書をしておこう……。

・受験は知識偏重だと思っている受験生は、暗記すべき知識の記憶すらめんどくさがっている人間が多いと推測される。単純な暗記だけで解ける問題はレベルの低い問題であって、ややその先の問題がちゃんとあるのだ。そんなところでぐずぐずしているから、いつも六割ぐらいをうろうろするはめになるのである。

・知識を一方的に教えられるのはいやだとか、ごちゃごちゃ言っている奴に思考力なんかあるはずないでしょうが。私の経験から言えば、そういう人は全員落ちこぼれてます。下手するといじめをやってることもある。だいたい、教師や学校に頼るなよ。

・つまり、あまり言いたくはないが、勉強をしないと道徳や倫理すら身につきまへん。どっちも「頭の問題」だからです。心は文化でできていると思うよ。

……

というか、学生の学力や能力の可能性を測るのは、非常に微妙で繊細な問題なのであって、教育現場でも、試験だけで測られているわけではない。試験の点数を学力と見なしそれとコミュ力や人間性などを別に測定しようとしている教員など、一部の阿呆だけである。大学入試の二次試験でもそうであって、採点の時には、実に様々な観点から答案を観察して点数が判断されているものである。それは教科を専門的に学んだ者にしかわからない微細で微妙な判断が含まれている。万人に分かることになっている役人言葉やメディアの言葉でそれを改革したりできるものではないのである。そもそも、これをセンター試験がマークシート方式で機械にやらせた時点で、かなり話がおかしくはなっており、それこそ問題がクイズの解答のような「知識」の問題に近づいてしまったのだ。

受験の試験問題を学問のおもしろさから切り離して、公務員やらの試験みたくつまらないもんにしてしまったのは、国家が試験を統一したからである。センター試験は事実上、国家公務員試験だと思う。ついでに、センター試験の監督を教員にやらせたのは、国家公務員としての研修を受けさせたようなものである。あの試験監督要領に書かれている文章に教員が慣れてきた時点で、研修はうまくいったといえよう。正直な話、あれに慣れてしまうのは狂気の沙汰である。

確かに試験の形態については、いろいろあるべきだし、総合問題や、面接や論文や集団討論だって、別にやりたきゃ勝手にやっていいと思う。しかし、その採点も大学ごとに勝手にやればよい。いまのように、くだらん制約が課せられているなかで、面白い問題は作れない。国家に任せとくと、例えば教育学部は、二次試験を学科試験の代わりにロールプレイや集団行動をやらせてみろとか、頭のおかしいレベルのことを言い出しかねないのである。教育学部だから学科の専門性が低くて良いと考えるのは、教員に対する――ある種の人々の蔑視と教員自身のルサンチマンが生み出した、完全な錯覚である。確かに、例えば、国語の教員が、国文学の研究者のような能力を持たなければならないということはないが、それは能力の質の問題であって、所謂学力の高低の問題ではない。教員の学力は普通に想像されているよりも遙かに高いものが必要である。これがまた、教員自身がそれを忘れかけているので、子どもや社会も教員を学力の低さを以て馬鹿にするようになるわけである。そういう判断が始まったら大変である。学力と関係がなくはない、普通人間性と呼ばれている部分にまで、――すなわち、その人の学力の欠点と相似形のような人間性の欠点が、素人目にも見え始めるのだ。

というわけで、国家は、さっさと大学入試から手をひいて欲しい。世界に通用するだかなんだかしらんがその「学生の主体性」とやらの確立は、それからの話である。

本当は、もう国家の制御を離れ始めていると思うんですけどね……学生の現実は……。

追記)とはいえ、わたくしに「受験勉強の成功」というものから疎外されてしまったこと――、つまり詰め込み教育への複雑感情があるということを認めよう。信州の「総合学習」とやらの成果がわたくしですよ……たぶん。しかし、やっぱり何か具体的なことを始めるには、100冊本を読むとか文学史を覚えるとか暗記的なところから始めるしかなかった。頭空っぽで何を創造したり話し合いするつもりです?むろん、国家の狙いは分かっている。頭空っぽの状態で上司からの指令についての話し合いをやったつもりになる奴隷を作り出そうとしているのである。そういう人材は言うであろう「教科は苦手だけど、教科を超えた思考力はあります」と。人間、具体的な知識が浮かばない場合、自分が「思考」していると錯覚するものである。私は予備校時代にそれを経験した。成績が振るわない人間の方が、むしろものを考えているということを。むろん「もの」は「虚無」の別名である。