鶴見俊輔を今読むと面白くて仕方ない人もいるのではなかろうか。ベートーベンの受容現象を「純粋芸術」と呼び、俗悪なものを「大衆芸術」、芸術と生活の境界線に存在する広大な領域を「限界芸術」と名付けるようなやり方に対して、さほど違和感がない人が増えているかもしれない。「純粋芸術」が戦時中に退いたといい、「その点では非常に健全な考え方が戦中にあった」と書く鶴見に、昔から私はあるうさんくささを感じていたが、今もそれは変わらない。確かに、芸術にとって、文学少年的なナルシシズムも障碍だが、不良少年のクールな粗雑さも障碍なのである。それは宮沢賢治を理念化したような観念的な化け物に行き着く可能性があるのではあるまいか。それは、美的でないので自分の錯覚にも気付きにくい。
わたしは他人の尻ぬぐいをしながらこつこつ世の中を変えようとしている人の方が好きである。