★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

それからしばらくすると

2016-03-04 18:03:31 | 文学


 野原にはもう春がきていました。
 桜がさき、小鳥はないておりました。
 けれども、山にはまだ春はきていませんでした。
 山のいただきには、雪も白くのこっていました。
 山のおくには、おやこの鹿がすんでいました。
 坊やの鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。
「お父ちゃん、春ってどんなもの。」
「春には花がさくのさ。」
「お母ちゃん、花ってどんなもの。」
「花ってね、きれいなものよ。」
「ふウん。」
 けれど、坊やの鹿は、花をみたこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。
 ある日、坊やの鹿はひとりで山のなかを遊んで歩きまわりました。
 すると、とおくのほうから、
「ぼオん。」
とやわらかな音が聞こえてきました。
「なんの音だろう。」
 するとまた、
「ぼオん。」
 坊やの鹿は、ぴんと耳をたててきいていました。やがて、その音にさそわれて、どんどん山をおりてゆきました。
 山の下には野原がひろがっていました。野原には桜の花がさいていて、よいかおりがしていました。
 いっぽんの桜の木の根かたに、やさしいおじいさんがいました。
 仔鹿をみるとおじいさんは、桜をひとえだ折って、その小さい角にむすびつけてやりました。
「さア、かんざしをあげたから、日のくれないうちに山へおかえり。」
 仔鹿はよろこんで山にかえりました。
 坊やの鹿からはなしをきくと、お父さん鹿とお母さん鹿は口をそろえて、
「ぼオんという音はお寺のかねだよ。」
「おまえの角についているのが花だよ。」
「その花がいっぱいさいていて、きもちのよいにおいのしていたところが、春だったのさ。」
とおしえてやりました。
 それからしばらくすると、山のおくへも春がやってきて、いろんな花はさきはじめました。

――新美南吉「里の春、山の春」