
戌の時ばかり渡りたまふ。車十して、儀式めでたし。おりて見たまへば、げに寝殿は皆しつらひたり。屏風、几帳立て、みな畳敷きたり。見たまふに、げにいかに思ふらむと、いとほしけれど、北の方ねたしと思ひ知れとなりけり。女君は、おとどの思すらむことを、おしはかりたまふに、物の興もなく、いとほしきことを思ほす。男君は、「運びたらむ物、失ふな。たしかに返さむ」と宣ふ。
復讐はさまざまなかたちをとるので、にっくき中納言と北の方が歎けばそれでよいような気がするのであろうが、だいたいこういうときには、文字通り「目にものを見せる」かたちになる。立派なモノ達の登場である。かんがえてみれば、落窪に姫さまを落とし込んだ時点でそれはかなり「目にものを見せる」やり方であって、加害者がかなり馬鹿であるというのは前提なのである。現代でも、物理的な厭がらせは馬鹿のやることと知れている。実際のいじめはもっと巧妙なものだ。
わたくしは、高校の時の古典の先生に、大事なのは「見えないものを見る力だ」と教わったが、この教師は惜しいことを言ったと思う。これでは、見えていない事態にたいして「目にもの見せる」やりかた、現代では「見える化」みたいなことが強力だということになりかねない。むしろ「見えないものを見えないままに見る力だ」と言わねばならない。
今日入ってきたニュースだと、「男が生めるのうんこだけ」というコールがあるフェミニスト?の集団によって発せられたらしいのであるが、まさに生産を「見えるもの」に限っている点で論外だ。そもそも私の場合、おしっこも生めるし、数年前のことであるが、尿管結石というものも生んだことがある。生めよ増やせよが論外なのは勿論であるが、うんこも子どもと同様、見えすぎるものに過ぎない。ただし、子どもの場合、その本体はほとんど見えないものである。最近、大学の体たらくをいつか小説に書いて欲しいとわたくしに言ってくる人がいるのであるが、冗談ではない。しかし、確かに、見えないものを見えないままに見る=描けるのは、文学ぐらいしかないのである。それは比喩を超越したやり方であるからだ。
見えないものの例のひとつは、たとえば、例の融即の法則みたいなものがそうかもしれない。見える化を至上命題とする正義の味方は、秘書がやりましたというのを汚い言い訳と見做す。しかし、それは見えすぎる真実にすぎない。彼らのいう秘書とは「金剛インコ」であって、秘書がやりましたというのは融即的にアタイがやりましたと言っているのである。これにたいして石破首相の場合は、素直に自分がやりましたと言っているので却って危険である。こういう人は、過去の私、もう一人の私とかいうて分裂して行くタイプである。高市氏なんかになると、今日の『大阪スポーツ』の一面に書いてあったが、「地球外生命体認めた」んだそうである。たぶん「金剛インコ」どころではなく、「地球外生命体」にまで融即の法則が及ぶ人もいるのだ。
そういえば、今年度の授業で扱った「推し活」現象であるが、これは「推す」相手に贈与することで攻め込む代わりにみずからがいちはやく「金剛インコ」になる競争である。モースの「贈与論」でいえば、ポトラッチ――首長たちが自分が破滅するまで贈与をしてみずからの権威を高めるようとする競争的贈与である。「推し活」は、推しがやりましたの代わりに私が贈りました、と言っているのであった。